彼に悪意はなかった。
 しかしおそらく、嘲りはあった。

 データで顔と名前は知っていたセカンドチルドレン。基本的なことも分からずにパイロットを務めていたらしい少女に失笑し、彼は教えた。
「エヴァは心を開かなければ動かないよ」
 彼女がどんな気持ちで受け止めるかまでは考えなかった。
 ただではおかないと凄まれ、例えば何をするつもりなのかも気になったが、その少し前に彼女が口にした言葉の方が彼には気になった。
「ねぇ、ヘンタイって何?」
 カッと見開かれた目が、怒気を通り越して狂気を宿し、殺気を放つ。両腕がまるで赤い蛇のように伸びてきて彼の胸倉を掴み上げる。
「何なのよ、あんた!? うるさいわよ、黙りなさいよぉっ!!」
 がくがくと首が振れるほど揺さぶられ、彼は抵抗も忘れて唖然とする。近付いては遠くなり、遠くなっては近付く少女の顔が、激情で歪んでいくのをぼんやり眺めた。
 突き飛ばされてよろけたところに、視界の端の赤が動く。鋭い音、左頬に走る痛み。肩と頭が壁にぶつかり、そのままずり落ちて尻もちをつく。叩かれたのだと理解出来た頃には、少女が馬乗りの体勢で再び腕を伸ばしてきていた。
 その時、第三の人物が飛び込んでくる。彼を本部まで案内してくれた碇シンジが、異変に気付いて駆けつけたのだ。しかしシンジの制止を少女は全力で振り切る。離して、触られたくない――耳に程近い位置で上げられる叫び声は、目の前で星が踊っているかの状態の彼にはいたく堪えた。金属的な響きに吐き気まで催す。
 事態を収束に導いたのは第四の人物だった。彼の知らない、だがそれなりの地位にありそうな大人の女性。その出現でようやく少女の感情の波が引いていく。と同時に、意思を感じさせるものさえも顔付きから急に消えていった。
 青い瞳が焦点を失って瞼の裏に隠れる。ふわり。髪が軽く舞った。四肢を支えていた操り糸が切られたように、少女の全身が彼の上へと落ちてくる。
 ――重い。
 よけることも受け止めることも出来ず、まともに圧し掛かられた彼の、それが感じた全てだった。
 シンジと女性が慌てて少女を抱き起こす。自由を取り戻した彼も立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、再び床にへたり込んだ。大丈夫?と覗き込んでくるシンジに、多分、と答えるも、その声が頭の中で変に篭る。揺さぶられたり壁にぶつかったりした衝撃がまだ抜けていないようだった。打ち付けた箇所が今更ながら鈍く痛み出す。
 彼にシンジが、少女に女性が肩を貸す格好で医務室へ向かう。途中、警報が鳴り渡った。真っ先に動いたのは足取りも覚束ない少女。女性とシンジもそれに続く。通り掛かった職員に託された彼は、大した感慨もなく三人の背を見送った。

 頭がふらふらするので、彼は医師に勧められるまま、ありがたくベッドに潜り込んだ。初号機パイロットだけが何故か待機を命じられていたことが気にならなくもなかったが、勝敗自体は決まっているのだからと、思い煩いもせずにぐっすり眠った。

 だから、全ては目が覚めた後だった。

 作戦局第一課の葛城ミサト三佐だと知った女性から、ネルフ本部所属の弐号機パイロットに任命されたのも。
 ロンギヌスの槍が戦闘で使用され、宇宙空間へ消えて回収不能になったと知ったのも。
 少女の心が壊れてしまったと知ったのも。





キミノカオ





 目の前で手を振ってみる。ガラス玉のような虚ろな瞳は、ピクリとも反応を示さない。
「本当に何も分からなくなったんだ」
 驚嘆。次いで彼の胸に湧き上がるのは愉悦。
「聞いたよ。無理やり先行したんだってね」
 ベッドの上の少女から返事はない。
「挙句このザマじゃ、世話ないね」
 せせら笑う響きを、本来なら決して許さなかっただろうに。
 今は病室に、彼と少女の二人だけ。彼女に代わって咎めてくる者もいない。
「弐号機、僕が乗ることになったから。よろしく」
 挨拶に誠意は篭っていない。彼はただ面白がって来ただけだ。自分に乱暴を働いた少女が、直後に辿った道を耳にして。
 数時間前には胸倉を掴み上げてきた腕は今、ベッドの中におとなしく収まっている。激情をたぎらせていた顔は今、生気を見出すことさえ難しい。
 その変わりように彼は笑った。短時間でこんなにも変わるのかと驚いて、驚くくらいの変わりように笑った。
「じゃあね」
 至極楽しげな声を残して、彼は病室から出て行った。



「何やってんの?」
 その日、彼が捜し当てたシンジの姿は少女のベッドの傍らにあった。
「……見舞いだよ」
 一瞥だけくれておざなりな返事をし、シンジはまた背を向ける。先程ファーストチルドレンに、自分達は同じだという言を否定されたばかりでもあり、彼の神経が少し尖った。
「眺めてれば回復すんの?」
 シンジの肩が強張ったように見えた。しかし何も言ってはこない。しばらく待ってもやはり言葉は返らず、彼はしらけた気分になる。
 ベッドの上の少女の様子は、昨日と全く変わらない。ここにいても面白いことはなさそうだった。
「じゃあ僕、行くよ。色々と手続きがあるんだってさ。面倒だよね」
「……そう」
 振り向かないままの、気のない返事。不満げに鼻を鳴らして彼はその場を後にした。



「シンクロテストやったよ。結果は教えてもらえなかったけど問題はないはずさ」
 相変わらず虚ろな表情をした少女に、彼は語って、笑ってみせた。可笑しくもないのに、無理やりに。
 好きになれそうにないよ――シンジから告げられた言葉が彼の頭の中でこだましている。それを消してしまいたくて自分の言葉を並べ立てた。
 おそらく少し前にはシンジが来ていただろうから、彼も来た。しかしどんな理屈によるものかは自身も分かっていない。したいようにしているだけで、それが物言わぬ少女への語り掛けになっているだけだ。
「僕は君よりずっと上手くシンクロ出来るんだ。何でか知りたい? ふふっ、でも教えてやらない」
 彼は喋り続ける。彼女は何一つ応えない。



「弐号機、赤くてカッコイイね。気に入っちゃった」
 次の日も彼は、シンジが帰った後に病室を訪れた。
「起動試験をやったんだ。勿論、順調に終わったよ。順調すぎて不審がられたけどね」
 アハハ、と上げる笑い声は、昨日よりは自然なものだった。
「君は元気だった頃、どれくらいのシンクロ率を記録してたのかな? 教えてもらってないんだ。でも多分、僕があっさり抜いちゃったね。だって僕、簡単にシンクロ出来ちゃうし」
 まるで悪びれた様子もなく言い放つ。
「君さぁ、エヴァのことを人形って言ってたよね? よく知りもしないで乗っちゃってさ。心を開こうともしないで。もったいないから僕が貰うよ」
 無邪気に笑って、言葉を続ける。
「弐号機は僕のエヴァだから」
 ピクリ。少女の口元が動いた気がした。驚いて彼は目を見張り、まじまじと見つめる。
「……もしかして、聞こえた?」
 返事はない。彼女の唇は薄く開いた状態から一ミリたりとも動こうとしない。焦点の合っていない視線も天井に向けられたまま。先程までと何の変わりもない姿。
 しかし気のせいだとは思えなかった。
 自然と彼は笑みを深めた。何げなく蹴とばした石が、偶然にも上手いこと木に命中したかのような心地がし、ワクワクと胸を躍らせた。
「弐号機を返してほしいなんて思ってるの? 駄目駄目、もう僕のだよ」
 もっと話し掛ければ、もっと面白い反応が見られるかもしれない。そんな考えに駆られて喋る勢いを増す。少女はエヴァに並々ならぬ執着があったと聞いている。だったらこの話を更に続けてやろう、と。
「君が元に戻ったとしてもさ、またシンクロ出来るとは限らないし。っていうか、無理なんじゃない? 僕が使った方がずっといいって」
 口でも目でも動かないかと、期待を込めて見続ける。
「みんなそう言うと思うよ? 僕の方がふさわしいってさ」
 ――反応が起きた。
 だがそれは彼にとって困惑すべきものだった。
「……あれ……? 何で……?」
 ガラス玉のような青い瞳が濡れていく。全く動かないまま、ただ濡れていく。
「ねえ、泣いてるの……?」
 雫は顔を伝い落ちていく。その様を彼は呆然と見つめる。
「泣かなくたっていいじゃないか……」
 反応が返ることを期待した。何でもいいから変化が起こってほしかった。
 けれども、泣かせたいと思っていたわけではなかった。
 少女の手に掴まれた感覚が甦る。掴まれた覚えのない心臓に、ぎゅっと握られたような痛みが走る。
「……泣かないでよ……」
 濡れた瞳が乾くまでの時間、彼はベッドの脇で立ち尽くした。



 その日は夜中に目が覚めた。静かに部屋を出て、これといって他に行く当てもなかったので、彼の足は病棟へ向かった。今日はシンジは訪れていないはずだった。
 監視モニターには映っているだろうが別段咎められもせず、昼間と同じように病室へと入り込む。電気を点けなくても、医療機器の放つほのかな光で室内は大体見渡せた。ただ、ベッドのすぐ傍まで寄っても、さすがに少女の表情の細部までは分からない。それでもかまわず口を開く。
「……ファースト、死んだよ」
 少女が動いた気配はない。
「自爆した。シンジ君を護りたかったのかな? よく分からないけど」
 いつもより淡々とした口調になっているのは、彼自身も自覚出来た。
「あぁ、そうだ。弐号機、左脚が斬れちゃった。すごく痛かったよ。エヴァに乗るのも楽しいことばかりじゃないね」
 語りたいから語っているのか。聞かせたいから聞かせているのか。そこまでは把握出来ていない。
 言葉を切り、薄暗い中でじっと少女を見つめる。
「……君はさ、幸せ者だよ。生きていられてるんだから」
 ぽつりと呟く。
「もう自分で物を食べることも出来ないのに、生かしてもらえてる。あの猫なんか、ほっとけば飢えて苦しんで死んだっていうのに。何もしなくても生きていられるんだ、よかったね」
 蔑んでいるのか、羨んでいるのかも分からない。一つ彼も分かっているのは、
「……君は、幸せ者なんだよ」
 彼女とて、望んでこの境遇を得たわけではないということ。



「ファースト、生きてたってさ。それを聞いた途端にシンジ君、僕の部屋を出てったんだ。現金だよね。ひどいと思わない? 過呼吸でゼエゼエ言って人の世話になってたくせに」
 後から後から愚痴が出る。耳を傾けられない代わりに嫌がられもしないため、それをいいことに彼は喋りたいように喋っていた。
 ひとしきり不満を述べて鬱憤を晴らすと、まぁ、と冷めた一言を落とす。
「生きてたわけじゃないだろうけど」
 少女は否定も同意もせず、病室は沈黙に包まれた。



 その日も物言わぬ少女相手に喋り尽くした彼は、帰り際に事務の女性から声を掛けられた。
「いつもお疲れさま。彼女、早く回復するといいわね」
「別に、そんなこと思ってるわけじゃないですけど」
 それは正直な気持ちだったが、では何を思って訪ねているのかと問われたらきっと答えに詰まっただろう。
 女性はたじろいだものの、照れ隠しだと解釈したのか、あらためて笑顔を作り直す。
「女の子へのお見舞いなんだから、今度花でも持ってきたら?」
「花? 持ってきたって見やしないんだから無駄でしょ?」
「そんなことないわよ、意識はなくても貰えばやっぱり嬉しいだろうし。要は気持ちが大事ってこと。毎日話し掛けてあげるのもそうだし、後は……例えば千羽鶴を作るとか」
「センバヅル……って何です?」
「あれ、知らない? 千羽分の鶴の折り紙よ。心を込めて折れば願いが叶うといわれてるの。まぁ、一種のおまじないね」
「ふうん」
 親切な説明にも、大して興味は引かれなかった。



 それでも勧められると気になるもので、翌日彼は暇潰しに出掛けた街で、つい花や折り紙を探した。実のところ千羽鶴どころか折り紙さえも知らなかったため、全く見当違いの店で尋ねて、当然ながら置いていないといわれた。
 さすがに花は花屋にあると分かるので、今度はそちらを探す。もう街では営業している店自体が稀だったが、何とか一軒見つけられた。だが在庫は少なく、残っていたのは白とピンクと水色の小花だけ。花は花でも何かが違う気がして、彼は買うのをやめた。
 他に店はないかと歩き回っているうちに郊外に出る。湖の方には何度か行ったが、山の方に来たのは初めてだった。半ば探検気分で進む。
 照りつける太陽。蝉しぐれ。むせ返るほどの草の匂い。そこで一つの花と出会った。
 オレンジ色の大きな花弁に毒々しいまでの真紅が散っている。やや下向きに咲く姿は、大地を威嚇しているかに見えた。彼は名を知らなかったがオニユリの花だった。
 これだと思った。これこそ少女にふさわしいと。
 彼女のために探していたといえるかは怪しい。だが今彼は、この花を持ち帰りたくて仕方がなかった。
 一本手折り、来た道を意気揚々と引き返す。炎天下、瑞々しさを保つ努力もしなかったため、病室に着いた頃には花は萎れていたものの、枕元に届け終わった彼は満足げに笑んだ。少女は視線も動かさなかったが。



 こうなると千羽鶴も用意したくなり、明くる日には彼は、人に聞いて回りながらあちこち歩いて折り紙を求めた。あそこならあるかも、と教えられて訪ねたら既に閉店していたということを何度か繰り返し、ようやく見つけた店にも百枚も残っていなかった。だがもうこれで良しとすることにした。折り方を知らないと気付いたのは、ジオフロントに戻ってきた後だった。
 幸い、鶴などの代表的なものの折り図は中に入っていた。自室に帰るのも面倒で、直接病室に赴き、少女の頭部付近の台を使って折り始める。耳元で作業をされていても、彼女がうるさがる様子はなかった。
「……あれ?」
 三角形を広げて四角形にする――その一文だけで終わっている手順のところで彼は躓いた。添えられている図も分かりにくく、どう広げればいいのかと悩んでいじっているうちに、黄緑色の紙はよれよれになった。途端に嫌気が差して製作を途中で放棄する。
 もっと別のものを作ろうと、鶴以外の折り図を眺めた。もっと簡単なものがよかった。端から端まで見ていって、紙飛行機を選び出す。これなら作れそうだった。
 飛行機のイメージで白い紙を折り始める。鶴と違って難なく出来た。早速病室の反対側の壁に向かって投げてみる。ふわり。空気抵抗を受けて舞う。壁までは届かず落ちたが、確かに紙飛行機は飛翔し、見届けた彼の顔が輝いた。
 片っ端から折っては飛ばし、折っては飛ばす。そのうち遠くへ飛ばせるための手首の利かせ方も分かってきた。四角い折り紙が減るにつれ、床の上の紙飛行機が数を増す。
 やがて彼はあることを思いついた。
 残った三枚の紙を三つの紙飛行機にし、まとめて左手で持って病室のドアの方へと歩いていく。そしておもむろに振り返ると、悪戯っ子のような笑顔で右手に紙飛行機を構えた。今度は遠くへ飛ばすことを目指すのではなく、狙った場所に着陸させることを目指そうというのだ。狙いは勿論、少女のベッド。
 一つ目。青い紙飛行機。勢いがつきすぎてベッドを飛び越え、向こう側へと落ちてしまった。
 二つ目。黄色い紙飛行機。勢いを弱めすぎて、ベッドの手前で失速して落ちた。
 三つ目。オレンジ色の紙飛行機。これが最後なので、どれくらいの力で投げればいいかを慎重に計算し、正確に狙いをつけて投じる。緩やかな弧を描いて飛んだ紙飛行機は、行きすぎもせず、途中で落ちもせず、三度目にして見事少女の胸元に降り立った。
 彼の口から歓声が上がる。弾んだ声を響かせたのは久しぶりだった。
 気付けば時刻は既に夕方で、病室も茜色に染まっていた。窓から差す光、ベッドに載った紙飛行機、少女の頭髪。同系色が調和して柔らかに溶け合っている。そこに床の上の無数の紙飛行機が彩りを添えていた。
 病室というキャンバスに意図せず描かれた、一枚の絵。しばし彼は見とれた。
「……綺麗だね」
 呟きに返る言葉はない。
 紙飛行機も鶴になれなかった鶴も、次の日には花と同様に片付けられて消えていた。



 今日も彼は病室に来ていた。
 今日も少女は何も映し込まない瞳を天井だけに向けていた。
「……弐号機、また借りるよ。これが終わったらもう使わないから安心していいよ。多分傷だらけにはなっちゃうけど」
 その程度は許容してもらおうと、彼は勝手に決める。
 後は無言。喋りたいことが特に出てこなかった。
 少女を眺めているうちにふと考えた。怒った表情はどんなだっただろうと。最初に嫌というほど見せ付けられたのに、もうおぼろげにしか覚えていなかった。うるさいと感じたはずの声も、耳の奥から抜けてしまっている。
 ベッドの上で露わになっている部分に、触れてみようかと思った。ぺたぺたと両手で。だがやめた。どちらかというと触れるより、触れてもらいたい気分だったから。
「……じゃあね」
 彼が病室を出て行く時、彼女が反応を示したかは誰も知らない。





 五月二日のカヲアスチャットから生まれた話です。
 「二人を女子トイレで出会わせた貞本先生は神」「でも遣り取りがあれだけで終わってしまったのが残念」「シンジとミサトが来るのがもっと遅ければ……」という会話になって、その時は小説化までは考えなかったものの、話の流れ自体は構築されました。花も千羽鶴も、チャット中に出された案です。あの時はギャグオチだったのですが。
 暗く、LAKとも呼びがたい内容ではありますけれど、楽しい時間をくださったにょりこさんとヨイさんに(ここを見てくださっているかは分かりませんが)この作品を捧げます。

 Last episode

 小説目次へ   HOME





inserted by FC2 system