住み慣れた街から遠く離れたこの地も暑さは変わらなかった。
空を見上げれば、青をくっきりと縁取るように入道雲が高く湧いている。
降り注ぐ陽光は鮮烈で、それでいてとても透明だった。
プリズム
洗濯物を全て庭に干し終えるとヒカリは軽く腰を叩いた。姉のコダマがいたら年寄りじみた仕草だと笑っただろう。母が死んで以来、一手に引き受けている家事は今更苦にはならないが、新居の物干し台の高さにはまだ慣れずにいた。
この地へ移ってきたのはつい先日のこと。父は多くを語らないまま、まるで最初から用意されていたかのようにすんなりと新たな職に就き、彼女達姉妹も来週からは新たな学校へ通い出すことが決まっている。戦禍と隣り合わせな日常はもう遠い。
大爆発による著しい都市機能の低下で、第三新東京市はいよいよ生活しがたい場所となり、辛うじて残っていた住民も疎開に踏み切らざるを得なくなった。慌ただしさの中でヒカリが別れの挨拶を交わせた相手は片手の指で足りるほど。ひそかに心寄せていた男子生徒の移住先は分からない。まだあの街に留まっている同級生はおそらく三人だけだろう。あの街から離れられない同級生は。
今はまだ胸のうちで燻る想い。懸念。後悔。
だがそれも、新しい生活に慣れればやがて薄れて消えるのだろうか。
そっと溜息をつき、縁側に腰を下ろす。コダマとノゾミは買い物に出ているため、家の中は静かだった。彼女の他に動く影は一つだけ。
近付いてくる小さな足音に振り向く。その姿を認めると、自然、口元が僅かに綻んだ。同時に微かな苦みも広がる。
第三新東京市を去る前にミサトから託されたペンペン。よちよちと歩いてきた彼は、しかしヒカリの隣まで来ることはなく縁側の手前で止まる。ペンギンなだけあって炎暑は苦手らしく、いつも日差しの当たらない場所から外を眺める。空の青や草木の緑といった色をその瞳は正しく捉えられるのか、生憎ヒカリの学では分からなかったが、今日のような晴天の日は心なしか表情も穏やかに見えた。それでも生気の乏しさは否めない。
ごめんね、元気でね、と。ペンペンを完全に彼女の手に預ける最後の最後の一瞬まで、ミサトは声を潤ませながら語り掛けていた。離れたくなどなかっただろう。これが最善の方法だと判断していても。
――最善。
確かに安全だけを考えればそうに違いなかった。しかしペンペンにとって望ましい道だったかは別だ。
最初は環境の変化に戸惑ったのか鳴きながら家中を歩き回るくらいだったが、やがて目に見えて元気を失った。餌にも水にも口をつけなくなり、風呂に入ることもなくなった。鳴きもせず、誰かを捜すように歩き回りもせず、部屋の隅にじっとうずくまって、時々こうして外の見える場所に来るだけだ。絶食の利く動物なため、健康を損なうにはまだ至っていないが、羽の艶は失われ、目の力は抜け落ちている。ペンギンとの同居に大はしゃぎし、競い合うようにしてかまっていたコダマとノゾミも、今はその心境を慮り、そっと見守るに留めていた。
このままの状態が続くようなら、動物病院に連れて行かなければならないだろう。だが病気が原因の衰弱ではないのに獣医の診察がどれほどの効を奏するのか。
もうミサトのもとに帰すことは出来ないかもしれない――そんな考えが時折浮かび、そのたびに必死にヒカリは振り払う。今もまた。
空に視線を戻す。青と白のコントラストはいつにもまして眩しく映った。目にしみて痛いほどに。
ふっ、と。風が吹いた。
突然ペンペンが大きな声で鳴く。驚き、見ると、羽をばたつかせて嬉しそうに全身を揺すっていた。まるで会いたかった人に会えたかの様子で。
一つの気配をヒカリは感じた。庭の方に急に生じた、しかし警戒心を喚起しない気配。
振り返った彼女が見たものは懐かしい面影。頭より早く胸の奥が、目の奥が反応し、切ないくらいの温かさが生まれて零れ出る。
「おかあ……さん……?」
お母さん……お母さん……
お母さん、お母さん、おかあさん!
おかあさん、わたしね、いえのなかのことがんばってやってるよ! おとうさんとおねえちゃんをたすけて、ノゾミのめんどうもちゃんとみてるの!
りょうり、うまくなったのよ! おかあさんがむかしおしえてくれたりょうり! みんな、おいしいってたべてくれるの!
そうじもせんたくもまいにちやってる! おかあさんがやってたみたいにやってるよ!
ねえ、おかあさん、はなしたいことがたくさんあるの。たくさん、たくさんあるのよ。
ねえ、きいてよ、おかあさん。
あのね、おかあさん、
おかあさん……
水風船の割れるような音が上がった。
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