机に向かってシンジは引っ越しはがきを書いていた。高校入学を間近に控え、アパートを借りて一人暮らしを始めたところだった。
 わざわざ個々にメッセージまで添えているのが、我ながら律儀というか馬鹿丁寧な気もして、少し面映ゆい。宛先は、引っ越しの手伝いがてら既にこの新居に上がっていった相手や、三日と空けずに何らかの遣り取りをしている相手や、入学式の日にはまた顔を合わせるだろう相手ばかりなのに。
 例外は一人だけ。しかしその相手とて既に、シンジが引っ越しをしたことも、新住所も、何らかの経緯で把握しているはずだった。送りたいメッセージも特にない。それでも最後に、その相手に宛てたはがきも書いた。
 終わると伸びをし、肩や腰の凝りをほぐした。まだ見慣れてはいない窓の外はよく晴れている。駅に行ってみようか、という考えがふと浮かんだ。先程まで書いていた名前達のせいだろう。そうすることに決めて、はがきの束や財布などを持って部屋を出た。
 白い日差しの下を歩いて辿り着いた駅は、ちょうど電車が到着したところだった。人を降ろし、乗せ、走り去る。一連の流れは、あの日のことをシンジに更に想起させる。
 あまりにも早かった。誰が提案し、誰が決定したのかは定かでないが、もう少し何とかならなかったのかと、今も微かな恨みが胸に残る。最大限に何とかしてもらえた結果だったとは分かっていても。
 視界には存在しない乗客を、電車を、シンジは記憶の中に見る。

 あの日。
 カヲルとアスカをここで見送った。



春と呼ばれた日に



 ほとんどの荷物はもうドイツに送ったか処分済みで、二人ともバッグ一つの軽装だった。マヤが餞別でくれたクラシカルなコーヒーミルも、一足先に空の向こうだ。

「ミサトさんは仕事で来られなかったけど……」

 二人の前でシンジは、背負っていた巨大なリュックを重そうに下ろし始めた。ケンスケとトウジがその脇に回り、他の客や駅員からの視線を遮る。

「知ってる。だからもう挨拶はしといたんじゃない」
「うん」

 忘れたのか、と言いたげなアスカに気後れするふうもなく、シンジは抱きかかえたリュックの口を開ける。そこから顔を出したのは――

「ペンペン! 何よ、わざわざ連れてきたの?」
「うん。アスカとお別れさせてやって、って言われたから」
「そりゃ、どうも。でも、何だってまた……」

 日本式な礼儀とやらに一応則って、アスカは旧居でもあるマンションを菓子折片手に訪ねていた。「お菓子もいいけど、ビールだともっとよかったわー」「未成年に何要求してんのよ」などと、湿っぽさとは離れた会話をひとしきり交わし、その際ペンペンとも別れの挨拶は済ませている。そもそも、彼女は大して懐かれているわけでもない。
 なのに何故――と、キョトキョト辺りを見回しているペンペンを訝しんで眺めていたアスカだったが、やがてある解答が浮かんだ。口の端が自然と持ち上がるのを感じながら、大袈裟に肩を竦めてみせる。

「もしかして……ダシにされた?」
「かもね」

 シンジも微笑を返す。
 あちこち見回していたペンペンは、今はじーっと、初めて目にする生き物を虚心げに見つめていた。その視線をカヲルは正面から、感慨とともに受け止める。
 彼がミサトの部屋に上がったことは一度もない。だから普段その部屋から出ることのない、彼女の家族と会ったこともなかった。

「……そうか、君がペンペンか」

 ずっと見つからなくて諦めかけていた探し物が不意に見つかった時のような笑みが、彼の顔に浮かぶ。大事な大事な宝物に触れるかのように、そっと手を伸ばした。

「会えてよかった。……ありがとう」

 撫でられて、ペンペンは気持ちよさそうに一声鳴いた。
 電車の時刻が迫る中、それぞれ別れの言葉を交わす。寂しさは胸に抱えつつも、時に冗談も入れ込んで。だが、端の方に佇んだまま、未だに一言も発しない者がいた。
 レイである。
 元々口数は少ないとはいえ、いつもより沈黙の度合いが過ぎた。そもそもここ数日彼女は、あまり口を利いていなかった。今住んでいるマンションが再開発で取り壊されることが決まったため、近いうちに彼女もアパートを借りて引っ越す。互いに荷造り等を進める中で、アスカとの会話らしい会話はなかった。カヲルとなら話しても。
 最初はヒカリだった。それから一人、二人と、申し合わせたかのように次々と彼女同様に口を閉ざし、視線や表情で何かを促し始める。誰も話をしなくなったので、やむなくアスカも黙る。レイはやはり何も言わない。
 アナウンスが、間もなく電車が到着することを告げる。仕方なしにアスカは、尊大そうな溜息をついて、レイに向かって口を開いた。

「あんたには随分――」

 たったそれだけだった。たったそれだけ口にしたところで言葉が途切れ、出てこなくなる。代わりに別のものが出てくる。続くように、レイからも。

「……何泣いてんのよ……」
「セカンドこそ……」

 ぼろぼろと溢れ出てくる涙を、アスカは手の甲で乱暴に拭うが止まらない。ぽろぽろと零れ出てくる涙を、レイは拭おうともしない。
 次に顔を合わせるのはいつになるか分からない。言っておきたいことは互いにあるはずだった。誰も口を挟んでこない、茶化してこないのだから、言いたいように言っていいはずだった。なのに、出てこない。時間の方は滞ることなく過ぎ去る。
 電車が滑り込んできた。停車し、扉が開き、人が降りてくる。さざめきに押し出されるように、「ヒカリ……」とようやく、潤んだ声による言葉が生まれた。

「こいつの面倒見てやってよ……? シンジも……。こいつのこと、頼むからね……頼むからね……」

 途中から発車ベルの音が重なる。レイはやはり、身じろぎもせずに泣いているだけだ。
 アスカの背中に手を添えて乗り込んだカヲルが、振り向いて「元気で」と言った声は、扉に遮られる前にホームに届いた。ゆっくりと電車が動き出し、淡い笑みも、ぐしゃぐしゃの泣き顔も、徐々に遠ざかって窓からは見えなくなって、やがて電車自体も見えなくなる。
 そうして二人は去っていった。



 はがきの束をシンジは駅前のポストに投函した。一番上には碇ゲンドウ様、と書かれている。
 来た道を戻りながら、彼はまた思い出し、そしてぼんやり考える。

 あの日。あの帰り道。
 ヒカリの隣を悄然と歩いているレイの後ろ姿を見ながら、思ったのだった。綾波を支えられる存在になりたいな、と。アスカに頼まれたからではなく、仲間意識からだけでもなく。何となく、そんな思いが湧いたのだった。

 あの日。
 自分は少しだけ大人になって、別の誰かは少しだけ子供になれたのかもしれない。

 あの日。
 終わりは来るのだということをあらためて知った。どれだけ強く望んでも、どれだけ懸命に努力をしても、永遠などおそらく手に入らないのだろう。終わりは必ず訪れる。
 それでも、形を変えて続いている。あるいは、始められている。

 今日。
 いそうな気がするから、お菓子でも買って訪ねてみようか。これからもよろしく、と。



 それはあの日抱いた思いの続き。
 新しい日々が始まる。
 始まっていく。


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