こうして帰ることも、もうあまりないんだ――。
電車の中で、窓や他の乗客を眺めながらぼんやりとアスカは考える。光景も、音も、匂いも、別れるとなると一つ一つを記憶に留めておきたくなる。
上層部の決定を伝えられ、退出し、以来ここまでほとんど話はしてこなかったが、隣に座っているカヲルがしばらくぶりに、前を向いたまま口を開いた。
「……怒らせそうな気がするけれど、一応言っておくよ」
アスカもそちらは向かないまま返事をする。
「聞いてみないことには、怒りたくなる内容かどうか分からないわね。何?」
「まだ意向の取り消しは利く。君だけなら、ここに残ることも可能だ」
「殴られるのと蹴られるのと、どっちがいい?」
「両方とも避けたいな」
「だったら二度と言わないことね」
「了解」
そこで一区切りついた後は、もっと情感の籠った会話になった。
「まぁ、私が怒るだろうと予想出来ただけ、あんたも成長したわ」
「鍛えられたからね。思えば君は今の方が、僕に対して暴力的だな。昔はここまで手や足は出してこなかった。物言いは攻撃的で辛辣で冷血極まりなかったけれど」
「その話は持ち出すんじゃないわよっ!」
今度こそアスカは怒り、同時に、次々と思い出される過去の所業に悶え苦しんだ。周囲から視線が飛んでくる。カヲルは平然と笑っている。
「あんたは性格悪くなったわ! 昔はニコニコ笑って受け流してたのが、今はニヤニヤ笑っておちょくってくる!」
「君の性格がうつったのかな?」
「私のせいにする気!? 念のために言っとくけど、あんたの兄弟のせいでもないわよ!? もっと前からなんだから! 元々そうだったのが表に出てきただけなんじゃないの!?」
「それならそれで意義深い発見だ。ただ、いずれにしても、君の存在によって起きた変化だよ」
単にからかわれているだけではないと分かっていても、面白くないような照れくさいような気持ちが混じり合って、アスカは少しそっぽを向いた。そして少し考える。彼が自分の存在によって変わったというのなら、自分も彼の存在によって変わっただろうか。変わったとすれば、何がどう変わっただろう。
駅に着き、電車を降りる。言葉は交わさないが、アスカはもう、そっぽを向いてみせるのをやめていた。あまり離れないようにしながら人波に交じって進み、改札を抜ける。抜けた先で、また隣に並ぶ。
駅を出て、外を歩き始める。たちまち日差しに肌を焼かれる。熱せられた空気に苛まれる。
だが、風も吹き抜けた。頬を撫でて髪を揺らす。心地よさに誘われたのか、カヲルが少し上を向いた。隣でアスカも視線を上げる。高く広く、青い空が目に映る。
もうすぐ見納めとなる、この街の空。
「……あんたといると、血圧が上がりやすくて堪ったもんじゃないわ。早死にする羽目になったらどうしてくれんのよ」
新たな空は、どんなふうに見えるのだろう。
空の下を、どんなふうに歩くのだろう。
「それは困るな。じゃあ、君を怒らせずに済むようなことも言おうか。喜んでもらえまでしたら嬉しいんだけどね」
「何よ?」
奇妙な言い回しを怪訝に思って見遣ると、彼は笑みを湛えたまま、しかし幾分改まった表情で見返してきて、通行の妨げにならないような場所で立ち止まる。アスカも足を止めて、何を言うつもりかと待ち構える。ややあってから彼は、若干硬い声で「アスカ」と彼女の名を呼んだ。
「僕と一緒に来てほしい。これからもずっと一緒にいてほしい」
途端にアスカの心臓が早鐘を打ち、急激に全身が熱を帯びる。やはり早死にするんじゃないかという考えがちらりと脳裏をよぎる。
だいぶカヲルのことを理解出来てきたつもりではいるが、分からないこともまだ多い。例えば、一体今どこまで自覚的でいるのか。まるでプロポーズみたいではないか。そうと気付いていても言ってきそうな相手であるため、判断に苦しむ。
それでも。
とても目を合わせていられなくて、一時視線を泳がせはしても。何度か深呼吸が必要でも。満面の笑みで、とまではいかなくても。
出来る限り真っ直ぐに、ありったけの想いを乗せて答える。
「……喜んで行くわよ。いるわよ、ずっと。一緒に。私がそうしたいから」
「……ありがとう」
心底から嬉しそうな笑顔の見本、のようなものが彼女の目の前に現れる。鼓動がまた乱れる。
「あまり何日もないんだからね? 早く帰って準備を進めるわよ、カヲル」
これ以上何かあっては本当に身がもたない。行動を起こされる前にと彼女は、さっさと彼の手を取り、歩き出した。
同じ風を受けて、同じ空を仰ぐ日々。
永遠までは届かなくても、そのすぐ手前まで。
――ずっと、一緒に。
ふたり
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