自分の顔が嫌いだった。

 みっともないそばかすが嫌いだった。



「お母さんも昔はそうだったんだよ」

 父はそう言って慰めてくれたが、ただの気休めだとヒカリは知っている。死んだ母の若い頃の写真にそばかすは見えない。自分より母親似な姉のコダマは美人と評判だし、肌も綺麗だ。妹のノゾミは父親似。黒目がちでよく動く瞳にはえも言えぬ愛嬌があり、例えそばかすが浮かんでもそれすら魅力的に見せそうだった。
 ――何で私だけ……。
 両親を恨みたくはないけれど、平凡でパッとしない容貌の中でそこだけが自己主張しているような点達が、嫌で嫌で堪らなかった。


 そんな意識を変化させたのは、中学入学後に同じクラスとなった少女だった。


「第壱小学校出身の綾波レイです。髪と目はこんなですが、病気でも何でもないので怖がらずに仲良くしてください。よろしくお願いします」

 噂では知っていた。生まれつき髪が青くて目の赤い、肌も気持ち悪いくらいに白い子がこの街にいると。
 実際に見ると想像以上に異様な色彩で、入学式でも人目を集めていた。
 しかし教室で自己紹介をする少女は実に堂々とした姿だった。凛と背筋を伸ばして朗らかな笑みを湛え、物怖じせずにハキハキと喋る。好奇と偏見に満ちた眼差しを注ぐ者達に居住まいを正させる、そんな静かな威厳が存在した。
 ヒカリは深く恥じ入った。少女を異様と感じた自分を。そばかす程度で悩んでいた自分を。
 少女は自分とは比べ物にならないほど悩んできたに違いない。苦しみ、涙し、恨み、呪ってきたに違いない。しかし今、少女は自らの特異な外見について自らの口で語り、にこやかに笑ってみせている。
 ――彼女の強さを見習いたい。
 ――私も彼女のようになりたい。
 それが洞木ヒカリの、綾波レイに対して抱いた想いだった。





 レイの家は有名だった。正確には、彼女が幼い頃に引き取られたという碇家は。
 特務機関ネルフ。この第3新東京市に住む人間なら誰もが知っている組織。しかし職員を家族に持つ者でさえ、実態はほとんど知らない。ヒカリの父も職員だが、総務部勤務らしいということしかヒカリは知らない。役職名も仕事の内容も教えてもらったことがない。謎の多い組織だ。
 ただ、権力者が碇という人間であることは知られていた。国家規模、世界規模の要人らしいことも。
 その碇の家の実子である碇シンジも、同じ一年A組に在籍していた。こちらは目立つ特徴もない、ごく普通の男子生徒。しかし碇の姓が嫌が応にも関心を集める。
 自分達にどんな目が向けられるかは充分に理解しているのだろう。レイもシンジも常に謙虚で、威光を鼻に掛ける真似はしなかったが、それでも周囲からは距離を置かれがちだった。金持ちに対するやっかみ、あるいは触らぬ神に祟りなしといった心理によるものだ。ヒカリはクラスの委員長に就任したこともあるし、殊更二人を避けるつもりも媚びるつもりもなかったが、やはりその背景にあるものを全く意識しないでもいられない。入学したばかりでクラス内でもよそよそしさの漂う時期とはいえ、二人の周りでは特にそれが顕著だった。
 そんな中、一年生の保護者会が開催された。

「うわっ、何だあれ……?」

 最初に気が付いたのは、窓際の席に座っていた男子生徒。いやに緊迫した物言いに何事かと皆の関心が集まる。ヒカリも他の生徒に交じって外を覗いて――それを見た。
 校門から真っ直ぐに歩いてくる、物々しい雰囲気の四人の男。中央の一人を周りから三人が囲んで護っているような態勢で、いずれも背広姿ではあるがサラリーマンには到底見えない。外側の三人は屈強な体格をしている上に足運びにも一切無駄がなく、油断なく周囲を睥睨している。だがその凄みも、中央の男が発する威圧感の前では霞む。肩幅こそ他三人には負けるが、こちらも長身。そびやかされた肩にも、頬から顎にかけてを覆う髭にも迫力が満ち、眼鏡の奥の眼光の鋭ささえ容易に想像出来る。命令を下し、他者の上に立つことを当然としている種類の人間の、倣岸なまでのその威容――。
 行進の足音さえ聞こえてきそうな日常離れした光景に、ヒカリはここが学校であること自体が何かの間違いに思えてきた。

「……地検特捜部……?」
「いや、ヤクザかマフィアの方じゃね……?」
「うちの学校、何やらかしたの!?」

 恐慌と狼狽で教室中がざわめく一方、腹を抱えて笑う者達がいる。
 第壱小学校の出身者達だった。

「ヤクザじゃないって。あれが碇の――」

 見渡すといつの間にかレイとシンジの姿はなく、代わりに全速力で廊下を走っていく二組の足音が聞こえた。

「今日はリツコさんじゃないのかぁ、残念。入学式のスーツ姿、麗しかったなぁ」
「白髪のおじさんは紳士って感じなのにねー。今日の登場もまたキテるわ」

 壱小上がりの生徒達が無責任に評し合い、やがて外でもちょっとした騒ぎが起きる。「お前が黒塗りの車で乗り付けるなと言うから……」「普通の車で来るとか……そもそもどこから歩いて……」「ごめんなぁ、我々としても司令を護らんわけには……」とシンジと男達が言い争い、遠巻きにして怯えている教職員や保護者に向かって「すみません、すみません、お騒がせして本当にすみません!!」とレイがペコペコ頭を下げた。
 お偉いさんの子供も結構大変なんだ――誰かがそう言って笑った。





 レイは早退、欠席をすることが少なくなかった。病気や怪我が理由ではない。ネルフの大事なプロジェクトに関わっているという話で、学校からも公認の扱いだった。
 彼女の分まで配布物を持ち帰ったり授業内容を教えたりという役目はシンジが担っていたが、それでは間に合わない場合も時々生じる。今回のように。

「洞木さん、これ持ってきたわ。遅れてごめんなさい」

 朝のHR前に、レイがすまなそうにプリントを提出してきた。ようやくクラス全員分が揃ったことになる。

「先生のところまで持っていくのよね? 私がやるわ」

 大丈夫よ、との言葉も気にせずレイがプリントの束を持ち上げたため、そのまま二人で職員室へ向かう。こんなことが時々ある分、自然とヒカリはレイと接する機会が多く、五月ともなるとそれなりに親しく会話するようになっていた。

「いつもごめんね。ただでさえ洞木さん、大変なのに」
「別に大変なんかじゃないわよ。これが私の仕事だし、昔からやってることだから」

 謙遜ではなく述べたつもりだったが、レイはそう言えるところがすごいのだと感心する。

「授業中にうるさくなるとすかさず注意するじゃない? 普通は腰が引けそうなことをビシッと言ってみんなをまとめるから、私、洞木さんを尊敬してるの」
「やだ、そんな大袈裟な……」

 小学校の頃から比較的成績も聞き分けも良かったヒカリは、気が付けばクラス委員長という役職が自動的に回ってくるようになっていた。一度そういう立場に就けば匂いや雰囲気とでもいうべきものが染み付くのか、中学でもやはり委員長に推された。
 就任した以上は務めを全うしなければという責任感が生まれる。気を張り、理想的と思われる姿を演じる。堅物として一部から煙たがられているのは知っているし、そのことに心を痛めもするし疲れもするが、今更だらしない人間にもなれない。良くも悪くも学校における自分の存在は「委員長」の一言に集約されるのだろうと受け入れているし、諦めてもいる。
 だから尊敬しているとのレイの言葉は分不相応に感じられてひどく面映かったし、また嬉しくもあった。
 ヒカリもレイの自己紹介から受けた印象を語ると、彼女は顔を赤くして照れた。



 以来レイとは急速に親密さが増した。休日に遊びに出掛けたり、下の名前で呼び合うようになったりした。
 二年に進級しても同じA組だった。シンジも含めて。
 レイと親しく付き合う中で、ヒカリが彼と会話する機会も自然と生じる。だが基本的に女子は女子、男子は男子で固まるもの。家ではいざ知らず、レイとシンジも学校では大して話をしない。ヒカリとレイが喋っているところにシンジが用を伝えに来て、ついでに二言三言雑談する、その程度のことがたまにあるだけだ。
 シンジ個人の印象となると、男子の中ではかなりまとも――それくらいしかヒカリには言えない。シンジにしてもおそらく、ヒカリ個人の印象は「委員長」の一言に集約させるしかなかったろう。友人の家族と家族の友人。そんな関係にすぎなかった。少なくともヒカリにとってはそうだった。

 ――あの日までは。





贖罪 〜彼の歩む道〜

side story 1



少女の階段 前編





 日曜日の常として、ヒカリは朝から家事に追われた。父は休日出勤、コダマは高校の部活。残るもう一人の家族のノゾミを手伝いに駆り出し、全員分のシーツを洗って、一階にも二階にも掃除機をかける。終わった頃にはもう昼だった。

「お姉ちゃん、デザート付けてよ。アイスあったでしょ、アイス」

 労働の報酬としてノゾミが要求してくる。しょうがないわねぇ、と渋々応じてみせたヒカリだが、本当は彼女自身も冷たい物が欲しくなっていた。暑い中で懸命に働いたのだし、妹と二人だけの昼食だ。たまにはデザート付きもいいだろう。
 ノゾミにテーブルを拭いて箸を並べるよう言って、自身はお湯を沸かしながら慣れた手付きで野菜を刻む。冷凍庫のバニラアイスが心を自然と浮き立たせるが、ふと入院中の友人のことを思い出し、少し申し訳ない気分になる。
 レイが交通事故に遭ったと聞いた時は目の前が真っ暗になったものだ。幸いにも一命は取り留めてくれたが重傷で、まだ満足に物も食べられない。先日見舞いに行ったが声を出すことも辛そうだったため、ヒカリが一方的に喋ってきた。早く元気になってくれればいいけれど。そうだ、退院祝いにはアイスを御馳走しようか。
 そんなことを考えながら鍋にパスタを投入した時、耳慣れない、しかしすぐにそれと直感出来る音が街に鳴り渡った。
 ――警報。
 一瞬の硬直を経て鍋の火を止め、台所の窓から外を確認する。特に異変は見当たらないが、特別非常事態宣言の発令を告げるアナウンスが流れた。どうやら誤報ではないらしい。
 お姉ちゃん、とノゾミがまな板と鍋を見遣る。

「ご飯、どうするの?」
「避難しなきゃならないから、パンでも持っていって食べましょ。アイスは帰ってきてから」

 えー、と不満の声が上がる。ヒカリとて後ろ髪引かれる思いだが仕方がない。妹を急かして避難準備を始める。
 父の部屋にかねて準備済みの非常用持ち出し袋を取ってくる。通帳も印鑑も保険証も入っている。その中に食料を詰め、自分の部屋からは財布と、それと文庫本一冊を持ち出す。庭ではためく洗濯物はどうしようかと迷ったが、まだ乾ききってはいないだろうし、そのままにしておく。雨が降らないことを祈るしかない。
 自分用のピンクのリュックを背負ったノゾミとともに家を出て、戸締まりをする。ちょうど隣家の主婦も出てきたところだった。いつも姉妹を可愛がってくれる気のいいおばさんは「あらヒカリちゃん、ノゾミちゃん」と笑顔を見せる。

「困るわよねぇ、こんなお昼時に避難だなんて。まだ食べてる途中だったのよ、私」
「うちは作ってる最中でした」

 帰ってくる頃にはパスタはざるの中ですっかり固まり、野菜も水気をなくしているだろう。食べられないことはないにせよ、もったいない話で、つい溜息が口をつく。
 あちこちの家から続々と住民が出てくる。まるで蟻のように群れを成してシェルターへ行進するが、誰の顔にも悲愴感はない。学校でも職場でも地域でも、幾度となく避難訓練は実施されている。だから大きな混乱は起きない一方、今更緊張感も持ちにくい。ヒカリと手を繋いで歩く、まだ小学生のノゾミに至っては半ば遠足気分で、物珍しそうに人の列を見回しては姉やおばさんにぺちゃくちゃと話し掛ける。それを適当にあしらいながらも、ヒカリもまた不安や恐怖とは無縁でいた。ただ、職場にいる父はともかく、長姉とは一応連絡を取ろうかと携帯電話の番号を押してみる。しかし聞こえてきたのはコダマの声ではなく、不通を伝える機械的な音声。非常時には一般回線が繋がらないかもしれないという教師の言葉が現実のものとなったと知り、初めて彼女は、これが訓練ではなく本番であることを実感した。

 シェルターは雑然とした雰囲気だったが広さは充分にあり、姉妹も落ち着いて腰を下ろすことが出来た。パンとペットボトル飲料で昼食を済ませると、ノゾミは向こうで友達のグループに交じって遊び始めた。おばさんは近所の主婦仲間と話に花を咲かせている。ヒカリの知り合いもいないことはなかったが、男子だったり家族と一緒にいたりで、暇潰しの相手は求めにくい。
 しかしそれは苦どころかむしろ望むところで、荷物からいそいそと文庫本を取り出す。昨日一気に読み通した上巻の続きに当たる下巻。思わぬ場所での午後の読書となったが胸は躍る。
 レイは退屈しのぎが出来ているだろうか。ここよりももっと静かで設備のいいシェルターにいるのだろうか。そんなことを少し考えたが、程なく彼女は作品世界に没入していった。



 余韻に浸りながら本を閉じる。期待に応えてくれる、満足出来る内容だった。しかし読み終わってもなお避難命令が継続していることには辟易した。
 さすがに腰や尻が痛くなり、もぞもぞとヒカリは体を動かす。周囲の空気もだれきっている。隣の男性は携帯テレビを点けっ放しにして寝ていた。ちらりと画面を覗いたが、相変わらず特別非常事態発令中というテロップが出ているだけだった。現状も分からないまま待たされることに苛立ちが募る。
 ノゾミは楽しそうに遊んでいる。皆で持ち寄ったのか、携帯ゲームやらカードゲームやらと遊び道具が充実していて飽きないらしい。たまに声が大きくなるが、周りの迷惑となるほどではない。むしろおばさん達のお喋りの方が賑やかだ。
 昨晩の徹夜と午前中の家事の疲れで、徐々にヒカリは眠くなってきた。抱え込んだ膝に頭を乗せて、うつらうつらとし始める。床から伝わってくる微かな震動。どこかで何か行われているのだろうか。だが彼女には関係のないこと。揺れさえも今は眠りを誘う。周囲の音が遠くなる……
 耳をつんざく轟音と激震に、一瞬にしてヒカリは目を覚ました。直後、濛々たる埃を吸い込んで咳き込む。自分がどれくらい寝ていたのかも、一体何が起きたのかも、まるで見当がつかなかった。
 音がしたと感じた方向に目を向ける。恐慌を起こしている人々と舞い上がる埃とで視界は悪かったが、その巨大な物体は見えた。
 手。紫色の巨大な右手が、趣味の悪いオブジェのように天井から生えていた。その下には瓦礫。
 手が上へと消えていく。引き抜かれたのだと理解するまでには時間がかかった。ぼんやりと追い掛けた視線が、隙間から覗く外の光景を捉える。闇の中で何かが動いていた。天井に辛うじてしがみ付いていたコンクリート片の落下とともに、ヒカリも意識を周りに戻す。
 今やシェルター内は叫喚の只中にあった。悲鳴と怒号が飛び交い、小さな子供達が怯えて泣き叫んでいる。
 ノゾミの姿をヒカリは捜した。あの子が遊んでいた場所は確か――そう、ちょうど瓦礫のある辺り――
 逃げてくる人々とぶつかりながら駆け付ける。ノゾミ、と大声で呼んでみるが返事はない。一緒に遊んでいた子が激しく泣きじゃくっていた。だがその傍にノゾミの姿はない。誰かが下敷きになったと叫ぶ声がする。ノゾミ、ともう一度呼んでみるがやはり返事はない。
 ヒカリちゃん、とすぐ近くから声がした。おばさんが青い顔をして立っていた。おばさん、ノゾミを見ませんでしたか、あの子が見当たらないんです――勢い込んで尋ねるヒカリに、彼女は唇をわななかせる。ノゾミちゃんは――ノゾミを見たんですか、あの子はどこですか、ねえ、おばさん――
 どなたかうちの妹を見ませんでしたか。洞木ノゾミといいます。背はこれくらいで、目がくりくりとした女の子です。この辺で遊んでいたんですが、どなたか御存知ありませんか。妹が見当たらないんです。ここにいたはずなんです。
 妹がどこにいるか知りませんか――?





 私のせいだとヒカリは泣き崩れた。責任を持たなければいけなかったのに目を離した、あまつさえ居眠りまでした、だからこんなことになったのだ。そんなことはないと、父とコダマが必死になって彼女を宥めた。
 後から思えば父も姉も辛かったに違いない。だがその時のヒカリには、とても気を配る余裕がなかった。
 ノゾミは瓦礫の下にいた。腕も足も骨折した。歩けるようになるまで何ヶ月もかかる。走れるまでになるのは更に先。
 数時間前の闊達さは見る影もなく、頭から足まで包帯を巻かれてぐったりと横たわっている妹に、ヒカリは声を上げて泣いた。ごめんなさい、私がしっかりしていなかったせいでごめんなさい――。
 泣きやまない彼女をコダマが家に連れて帰り、病院には父が残った。
 姉相手に懺悔を繰り返しているうちにいつの間にか眠ってしまったらしく、翌朝気が付くとヒカリの体にはタオルケットが掛けられていた。ご飯、出来てるわよ――そう告げる姉の瞼も赤く腫れていた。何年かぶりに自分以外の人間が作ってくれた朝食。昨日切った野菜もサラダに使われていた。ざるに開けたパスタはなかった。捨てたのか、姉が昨晩食べたのかは分からない。
 二人はその日学校を休み、病院から直接職場に向かった父に代わって、入院道具を携えて病室を訪れた。ノゾミは包帯の隙間から覗く目に涙をいっぱいに溜め、ごめんね、と小さな声で謝った。ヒカリの目からもまた涙が溢れ出し、コダマは妹二人を同時に慰めなくてはならなくなった。

 次の日もヒカリは学校を休み、病室に行った。その次の日も休んだ。更に次の日も。
 不健康だと咎められたし、おばさんからも案じられたが、聞き入れる気にはなれなかった。夜は父と姉が交代で泊まり込む。だから昼間は自分が付いていてやらないといけない。時に妹に癇癪を起こされようと、逆に気を使われようと。
 だがそんな状態が一週間以上も続くと、コダマが痺れを切らして叱ってきた。

「毎日悲劇ぶった顔で横にいられちゃ、ノゾミだっていい迷惑よっ!」

 反論の余地はなく、重い足を引きずってその朝は学校への道を辿った。
 慣れ親しんだ通学路。同じ制服を着た者達。全部が自分とは無関係の存在に思える。元気に挨拶を交わす声も陽気なお喋りも、何もかも遠い。変わってしまった。ヒカリも、そして取り巻く環境もおそらく少しは。
 教室の戸を開けると視線がいくつか集まる。

「ヒカリ、随分休んでたじゃない。どうしたの?」
「うん、ちょっと……」

 気さくに話し掛けてきた女子生徒に、ぎこちない作り笑顔と曖昧な言葉を返し、久しぶりの教室を見回す。いつものこの時間に比べてやけに人数が少ない。気付いた女子生徒が、あぁ、とほろ苦い笑みを漏らす。

「疎開したのよ、みんな」
「そう……」

 病院への行き帰りのバスの中で、買い物をするスーパーで、いつ引っ越そうかという会話を何度か耳にした。通りにも工事中の建物が多かった。十日前までの第3新東京市ではもうないのだ。
 あんな事件が起きちゃね、と嘆じる彼女には悪気などまるでないだろう。しかしヒカリの心には小さな引っ掻き傷が付く。事件――ロボット事件――テレビや新聞の報道は嘘ばかりだ、だってあのロボットはノゾミを――。
 陰気さを払拭したかったのか、女子生徒が急に明るく声を張り上げた――そうそう、あのロボットのパイロットなんだけど実は、



「碇君なのよ」



 談笑している数人の男子生徒。横を向いて話している一人の傍に立ち、碇君、とヒカリは呼んだ。振り向いた彼は、おそらく挨拶でもしようとしたのだろう、彼女に対して笑顔を作る。
 ――その頬をヒカリは力の限り張った。
 勢いでシンジの体が転がり、机と椅子にぶつかって派手な音を立てる。普段は諍いを止める側であるヒカリの突然の蛮行に、皆が言葉を失った。シンジも床から呆然と彼女を見上げる。
 碇君、と吐き出す声が激情で震える。

「ノゾミが、うちの妹が怪我したのよ! あの事件で! 瓦礫の下敷きになって! ロボットがやったのよ! あなたの乗ったロボットが!!」

 シンジの顔から見る見る血の気が引いていく。打たれた左頬の赤みが余計に際立った。

「あの子が怪我をしたのはあなたのせいよ!! あなたが怪我をさせたのよ!!」

 ――理不尽だ。
 ヒカリの心のどこかが囁く。筋違いだ、逆恨みだと。
 代弁するように一人の男子生徒が横から口を挟んでくる。

「けどいきなり殴らんでも……シンジかて決してわざとやなかったやろうし……」

 だから何だと心が吠える。わざとではないから許せと? 不運な事故だったとでもいうのか、冗談ではない。ノゾミは何もしていない。あの子には落ち度なんてない。責められるべきはあの子以外だ。敵はもう倒されたというなら他の者が責めを負え。それはシンジか、あるいはヒカリだ――!
 予鈴が鳴った。まるで呪縛を解く合図だったかのように皆が一斉に身じろぎをし、落ち着きなく顔を見合わせる。
 別の男子生徒がシンジを助け起こし、保健室に行こうと告げた。

「いや、これくらい何でも……」
「いいから。一応行こうぜ」

 心配してというより、教室の外に連れ出すことで少しでもほとぼりを冷ましたかったのだろう。言外の意図を察してシンジも小さく頷く。
 その目が申し訳なさそうにヒカリを向くが、反射的に彼女は顔を背けた。
 ごめんなさい、という沈痛な謝罪にも一言も返しはしなかった。





 わざとじゃなかったはずだと、折に触れて同級生が諭してくる。街を護ってくれたのも彼なのだと。そして控えめに続けられた。

「……本当はヒカリも分かってるんでしょ?」

 おそらくはその通りだろう。ヒカリの心のどこかが同意を示し、己の行いを後悔している。しかし一方でシンジを拒絶してもいる。彼を許し、受け入れるということが出来ない。
 彼女と同様、シンジもめっきり無口になった。始業前や昼休みなどに話し掛けてこようとすることはあるが、そのたびにヒカリは席を立ったり、顔を背けたりして突っ撥ねた。クラスの空気を悪くしているとは気付いていても、自分でももう態度を変えられない。
 レイの見舞いにも行かなかった。彼女もパイロットだと聞かされたが、それを抜きにしても顔を見ることなど出来はしなかった。レイはシンジの口からいきさつを聞いただろうか。だとしてもヒカリには確認出来ないことだ。
 そんな学校生活が一週間ばかり続いた後、二度目の避難命令が出た。





 自分が上がりになるのを待って、ヒカリは他の女子生徒に断りを入れてトランプを中座し、席を立つ。作り笑顔を保つのが辛くなっていた。シェルターの廊下に一人出て、息をつく。
 警報発令に先立って、シンジのもとに入った連絡。立ち上がる彼に教室中から声援が飛んだ。ヒカリは黙って下を向いていた。
 ――じゃあ……行ってきます。
 あの声が耳から離れていかない。
 大人達で賑わう喫煙場所を避けてとぼとぼ歩いていると、遠くに同級生の後ろ姿が見えた。相田ケンスケと鈴原トウジ。クラスでも問題児コンビとして名高い二人。皆のもとに戻るのとは正反対の方向に、人目を避けるように進んでいく。あちらにはお手洗いもないはずなのにと訝しく思い、そっとヒカリは後を追う。
 人気のまるでない通路。二人は角の向こうへ消える。顔を少しだけ出して覗いて、途端にヒカリは目を剥いた。二人は力を合わせて非常口をこじ開けようとしていたのだ。

「ちょっとあんた達、何やってんのよ!?」

 慌てて駆け寄ると、げっ、と呻きながら彼らは振り向く。

「せやからやめよう言うたやないかっ! お前のせいやで、ケンスケ!」
「頼むよ委員長、見逃して! 今度またいつ敵が来てくれるか分かんないんだ!」
「誰が見逃すもんですか! さっさとみんなのところに戻るわよ!」

 仲間割れにも拝み倒しにも一切耳を貸さず、容赦なく引っ張っていこうとしたヒカリだが、

「――委員長は、シンジの戦いを見届けたいと思わない?」

 ケンスケのその言葉に足が止まる。

「妹さんを怪我させたことをシンジが気に病んでるのは、委員長だって分かってるだろ? いつまでも気まずいままでいいの? あいつがどんなふうに戦っているか、知っておいてもいいんじゃない?」

 お前、ホンマに自分の欲望に素直やなぁとトウジが呆れ交じりに相方を評す。二人はあの朝、彼女に意見を挟んだ者と、保健室へシンジを連れて行った者でもあることをヒカリは思い出す。
 上手く言いくるめようとしているだけだとは感じる。軍事オタクなケンスケは結局のところトウジの言う通り、外に出て戦闘を見物したい一心だろう。見え透いていた。
 だが、そうと知りつつ彼女は詭弁に乗った。
 委員長の義務ではなく洞木ヒカリの感情に従った――そんな言い方も出来たかもしれない。



 ロボットの正式名称は汎用人型決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオン。シンジの乗るのはその初号機というタイプだと、先頭を切って進みながらケンスケが得意げに語って聞かせる。更に続く軍事講釈にトウジが適当極まりない相槌を打ち、ヒカリは街並みに目を走らせた。人の姿も、巨大な人型の姿も見えない。代わりに覚えのないビルが聳え、馴染みのビルが消えている。これこそが迎撃要塞都市とも呼ばれる第3新東京市の真の姿なのだろうか。知らない街を歩いているような感覚で落ち着かなかった。
 小高い山の中腹にある神社の境内まで上る。軽く息を弾ませながらビル群を見渡すと、移動する巨大な姿が目に入った。人型ではないが機械にも見えない、生物めいた何か。あれが使徒とかいう敵なのか。まるで現実感が伴わなかった。トウジもそうらしい。ケンスケ一人が大はしゃぎしてビデオカメラを回している。
 程なく、ビルの中からもう一つ巨大な姿が現れた。ぎりっと唇を噛み、ヒカリはきつく拳を握り込む。紫色の巨人。ノゾミに怪我を負わせたロボット――シンジの乗るエヴァンゲリオンに間違いない。
 エヴァンゲリオンは銃を手にして敵への攻撃を始めた。激しい音がここまで響く。しかし敵が光る鞭のような物を振るい出すと、素人目にも明らかなほど守勢に追い込まれていく。聞こえるとも思えないがトウジが身を乗り出して声援を送った。
 敵の鞭がエヴァンゲリオンを絡め取る。そのまま軽々と宙に巨体を放り投げた。軌道を目で追って――血の気が引く。三人のいる場所に向けて飛ばされていた。ビルと同じくらい巨大な物体が、上空から猛烈な勢いで彼女達のもとに落下してくる。

 死ぬ――。
 恐怖のあまり叫ぶ声さえ出ず、生まれて初めてヒカリは己の死を意識した。

 両目を固く瞑り、頭を抱えてしゃがみ込んで、襲い来るだろう重量と苦痛に備えた。自然と目尻に涙が滲んだ。誰かの顔を思い浮かべる余裕もなかった。
 地面が轟音とともに震える。体が一瞬宙に浮くほどの衝撃。しかし不思議と重量も苦痛も訪れてはこない。
 恐る恐る目を開く。地面も自分の足もちゃんと見えた。頭を抱えたまま震えている手も、何とか動かすことが出来た。生きている……らしい。
 自分以外の人間の息遣いも身近に感じた。ケンスケ。トウジ。どちらも生きているようだ。
 泣いているのか笑っているのか自分でも分からない状態で、ゆっくりと首を巡らせてみる。すぐ背後に紫色の壁が聳えていた。よく見ればそれは壁ではなく、エヴァンゲリオンの左腕。彼女ら三人と何メートルも離れていない地面に長々と横たわっていた。もう少し位置がずれていたら――。背筋が凍り、がくがくと歯の根が合わなくなる。
 巨大な腕が動き始めた。ぐっと地面を押してエヴァンゲリオンが起き上がろうとする。見ると敵はもう間近まで迫っていた。お願いだから早く何とか――なりふりかまわず懇願しかけて、ヒカリは愕然となった。今ここで戦われたらどうなる!?
 強風を巻き起こしながら腕が動き、唸りを上げて飛んできた鞭を両の手で受け止めた。肉や金属や塗装が一緒くたに溶かされているような嫌な匂いが立ち込める。エヴァンゲリオンは手を離しもしなければ反撃にも移らない。シンジも気付いているのだ、彼女達の存在に。だから思うような動きが取れない。すぐにここから離れなければ――だが石段でさえ今は遠い――それでもどこかへ――早く逃げないと――
 エヴァンゲリオンの首筋から何かが射出された。同時にシンジの声が、ここに乗ってと呼び掛ける。考える間もなくヒカリの体が動いた。ケンスケとトウジとともにひた走る。
 飛び込むと、予想に反して水に受け止められた。頭がパニックを起こし、空気を求めて浮上を試みる。しかし周りが明るくなると幾分焦りも消えた。
 外の景色が展望台のように見渡せる。何かのデータを示す画面がいくつも映し出されている。

 そんな空間の中央にシンジがいた。

 パイロットスーツだろうか、見たこともない服装。物々しい椅子に深く腰掛けて両手でレバーを握っている。視線は前方に据えて敵を睨んでいた。歯を食いしばり、必死の形相で。思わず酸素のことなど忘れ、ヒカリは水を飲んでしまう。不思議と息苦しくはなかった。
 シンジがレバーを動かす。操縦室内全体が揺れ、慌ててシンジの座っている椅子に掴まる。どうやら敵を投げ飛ばしたらしい。その隙にエヴァンゲリオンが立ち上がったことを景色の動き具合から察する。退却して、とスピーカーから女性の声が聞こえてきた。すかさず走り出すエヴァンゲリオン。一定の間隔で上下に揺れる景色が、見る見る後ろに流れていく。
 がくん、と急に大きな衝撃が加わった。ジェットコースターの降下さながらに道路が迫り、正面から激突する。水の中だからか思ったほど体は揺さぶられなかったが、シンジはくぐもった声を漏らした。
 エヴァンゲリオンが後方へ視界を巡らす。足首に鞭が巻き付いていた。それを外す間もなく後ろに引きずられ、ふわりと浮き上がったと思うや、道路に叩き付けられた。堪らずヒカリもケンスケもトウジも椅子にしがみ付きながら悲鳴を上げる。周りのビルが薙ぎ倒される様が見えた。
 仰向けになったところに敵のもう一方の鞭が飛んでくる。おそらく胸板辺りに命中したのだろう、今度こそシンジが明らかな苦痛の叫びを上げた。もしかして我が身同然に痛みを感じるのかとヒカリが推量した次の瞬間、彼はぎらりと目を閃かせ、猛々しい咆哮とともに激しくレバーを動かした。
 エヴァンゲリオンが足首に絡んだ鞭を両手で掴み、全力でそれを手繰り始める。引っ張られた敵との距離が縮まるや、今度は右手にナイフを構えた。スピーカーの向こうで女性が制止を呼び掛けるがシンジは聞かない。左手に鞭を二重三重に絡めて更に引き寄せ、雄叫びとも怒号ともつかない吠え声を上げて、敵の丸い飾りを思い切りナイフで突き刺す。どこから迸っているのかも分からない叫びも、血走った目も殺気に満ちた形相も学校で見る彼とはまるで別人で、恐ろしいというよりヒカリはただただ竦んだ。
 自由になっている方の鞭がエヴァンゲリオンを叩く。だがシンジはナイフで抉る手を止めない。活動限界まであと三十秒という宣告が聞こえる。おそらく切迫した事態を伝えているのだろうが、それでもシンジは手を止めない。ぎりぎりと捻りながらナイフを更に刺し込んでいく。火花が血液さながらに飛び散っている。
 残り十秒、九秒と時が過ぎ、五秒となった頃不意に火花が弱まった。四秒、三秒。完全に途絶える。二秒、一秒。操縦室内が暗くなり、外も全く見えなくなった。活動限界、なのだろう。辛うじて互いの顔形は分かる。
 シンジが荒く呼吸している。案じるケンスケとトウジに大丈夫と返して、疲労を滲ませながら彼は首を巡らせ、ヒカリを向いた。

「委員長……大丈夫……?」

 出てこない言葉の代わりに小さく頷いてみせると、まだ張り詰めた部分の残っていた彼の表情がようやく和らいだ。

「よかった……ごめん、怖い思いをさせて……」
「ううん……」

 何とか絞り出した声は震えていたが、シンジの声の方がもっと弱々しく、それでいて彼女への気遣いを精一杯に込めてくれていた。先程までとは全く違う――いや、これが本来の――

「……ごめんなさ……」

 最後まで口に乗せ切る前にヒカリの喉が詰まり、目から涙が溢れ出した。

「ごめ……なさ……いかりく……ごめん……さい……ごめ……」

 もう立ってもいられなくなって、ヒカリはしゃがみ込んで激しくしゃくり上げながらごめんなさいを言い続けた。まともな言葉にならなかったが、ごめんなさい、碇君ごめんなさい、と何度もひたすら繰り返す。
 シンジはこうやって戦っていたのだ。命を失う恐怖に晒されながら、激しい苦痛に耐えながら、歯を食いしばって死に物狂いになって戦っていたのだ。それを責め立てていいはずがない。決してない。
 ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返す口に入ってくる水は、涙が混じってしょっぱかった。シンジ達が慌てふためいて宥め役を押し付け合っている様子は聞こえたが、外からの迎えが到着してもなお、ヒカリはなかなか泣きやめなかった。



「俺達が委員長を無理やり引っ張っていきました」
「先生を呼びに行かれとうなくて……すんまへん」

 ケンスケとトウジの説明にヒカリは耳を疑った。違います、私も自分で、と言い立てるのを遮って、二人はあくまで自分達が強引に巻き込んだのだと主張し、教師もそれに疑問を挟まなかった。結果、早々にヒカリは校長室から出され、残った二人だけが大目玉を食らう。
 太陽がすっかり西に傾いた頃になってようやく解放してもらえた彼らに、何故あんな嘘をついたのかとヒカリが問うと、けろりとした顔で答えられた。

「だって委員長が規則違反ってことになったら示しがつかないだろ?」
「その点ワシらは叱られ慣れとるからな」

 妙なことで胸を張ると苦笑いしながら、彼らへの認識をヒカリは大いに改めた。



 ノゾミの見舞いの合間を縫って、もう行くことはないだろうと思っていたレイの病室に再び足を運んだ。彼女は何とか普通の声が出せるくらいに回復していた。
 自分の所業もやましさも包み隠さず話すヒカリに、レイは優しい微笑みを見せ、一緒に涙してもくれた。





 怪我から一ヶ月が経ったが、幸いノゾミの回復過程は順調だった。まだあちこちギプスで固められたままだが、松葉杖で歩く練習も少しずつ始めている。自然な笑顔を見せる回数も増えてきた。
 そのことをヒカリがシンジに伝えたところ、是非見舞いに行きたいと頼まれた。それには及ばないと言っても譲らず、押し切られる形で放課後一緒に行くことになった。

「そこまで気を使ってくれなくていいから」
「だって手ぶらで行くなんて出来ないよ」

 見舞い品を買うという申し出を最初は遠慮したヒカリだが、自分が逆の立場ならやはりそうせずにいられないだろうなと思い直し、ありがたく厚意を受けることにする。
 店の立ち並ぶ中心街に向かい、まずシンジが候補に挙げたのは定番ともいえるお菓子類だったが、これはヒカリが固辞させてもらった。ただでさえ同部屋の人やその見舞いの人からいつも頂戴している。運動の適わない現在のノゾミでは本格的に太りかねない。ならば花でも、と花屋に行ってみたらシャッターが下りていた。長い間御愛顧いただきまして誠にありがとうございました――貼り出されていた紙に二人して黙り込んでしまう。店の前から離れて再び何気ない口調で会話を再開させるまで、少し努力を要した。

「何かノゾミちゃんが欲しがってる物はない? 退屈しのぎになりそうな物とか」
「私とお姉ちゃんが持ってるCDとか、レンタルしてきた映画とか色々持ち込んでるから大丈夫だと思う。むしろ勉強させたいくらい」

 さすがに勉強道具は、と苦笑するシンジにヒカリもつられて笑う。確かにそんな物を見舞いと称して持っていくのはただの嫌がらせだ。
 何かないだろうかと見回しながら歩いて、やがて新たな候補として彼が挙げたのはぬいぐるみだった。ファンシーショップの店先に様々な動物が愛らしく並んでいる。こういう物は持って行っていないと答えると、シンジは躊躇なく中へ入っていった。男の子なら恥ずかしがりそうなものなのに、と面食らいつつヒカリも後に続く。

「ノゾミちゃん、何の動物が好き?」
「あの子は犬ね」

 ペット番組を観ては飼いたがり、猫派なコダマと揉める。もっとも、命に対する責任を自覚しきれていないうちに安易に動物を飼うことは父が許さないのだが。
 そんな話を興味深そうに聞きながら、シンジはふさふさした白い毛の犬を選んだ。ベッド脇に置いても邪魔にならない大きさである。店員が包装してくれている間、ヒカリもシンジに尋ねてみる。レイは忙しさやら何やらでペットを飼うことは断念しているそうだが、彼の方はどうなのだろう。

「んー、犬を飼いたいなって思うことはあるけど……」

 そこで一旦言葉が切られ、意地悪げに口の端が持ち上がる。

「うちにはもう、図体だけでかくて手の掛かるのが一人いるから」

 レイも似たようなことを言っていたと笑いながらも、ヒカリはどうも上手く想像出来なかった。彼の父親とは一度思いがけず遭遇したことがあるが、緊張で体がガチガチに固まったものだ。あの厳めしい容貌と家族からの評が結び付かない。
 実際はどれだけ面倒な人間なのかをシンジが懇切丁寧に語り始めたところ、女子高生の集団が来店した。店内は一気にかまびすしい雰囲気となり、急に居心地悪そうに彼は落ち着きをなくす。綺麗に包装された品物を受け取るや、ヒカリを促し、そそくさと店を後にする。その慌てぶりに彼女は堪らなく可笑しさが込み上げた。

「碇君、ああいうところも平気なのかと思った」
「まさか」
「だってぬいぐるみも抵抗なく手に取ってたし」

 病院への道のりを歩きながら、いかにも心外そうに顔をしかめていたシンジだったが、少し考えたのち一部を認めた。

「うちの小物は大抵レイのセンスで選ばれてるし、男同士で遊び回ることもあまりなかったから、もしかしたらその分、女の子物への抵抗は人より薄いのかも……」
「昔から家の中のこと、碇君が中心になってやっていたのよね? レイ、いつも感謝していたわ」

 片親の家庭などありふれている御時世だ。家で炊事、洗濯、掃除をこなす生徒は男子でも少なくないだろうが、毎日きちんとした弁当まで作ってくるのはクラスではシンジしかいない。ヒカリが褒めると彼は照れくさそうに昔のことを語る。肉や魚を嫌がるレイに、どうすれば食べさせられるだろうと考えているうち、調理だの栄養だのが気になり始めてしまったのだと。

「でもおせちとかクリスマス料理とか、手の込んだ物になるとレイの方が熱心だし上手いんだ。僕のは節約と効率重視の主婦の料理、レイのは手間暇惜しまない職人の料理って言われたことがある」

 二人でひとしきり笑い、請われてヒカリも自分の家のことを語った。外で遊ぶのが好きだった姉、家で母親と話すのが好きだった自分。自然と昔から家事に親しんでいたため、母が死んだ後はそのまま夕食の準備などを手掛けるようになり、代わりに姉が幼いノゾミの面倒を見て……そんな話にシンジも静かに耳を傾ける。語り終えた頃には病院の前まで辿り着いていた。



 深く詫びるシンジに対し、ノゾミはすぐには口を開かなかった。吟味するように彼をじっと見つめて、それからにこりと笑顔を作る。

「みんなをまもってくれてありがとう」

 本当はもっと複雑な思いもあったかもしれない。しかし妹が口にしてくれたその一言に、ヒカリ自身も救われた気がした。
 シンジがぬいぐるみを差し出すと、今度こそノゾミははっきり喜色を湛えた。可愛い、可愛いを連発し、ギプスを嵌めた腕で抱きしめて撫で回す。後になってヒカリは知ったのだが、ノゾミはこの夜からぬいぐるみと一緒に寝るようになった。単に気に入ったというだけではなく、抱きかかえる対象が出来たことで何らかの安心感を得られたのだろう。
 ともあれノゾミはすっかりはしゃぎ、ロボットの話や学校での話をシンジにせがんだ。必殺技は何なのか、コクピットはどうなっているのか、姉の学校での様子はどうなのか、といった質問は笑ったり苦笑いしたりで聞いていられたヒカリだが、お姉ちゃん学校でもガミガミ怒鳴ってるんでしょ、と断定されるに至ると、シンジの前ということも忘れて思い切り妹をどやしつけた。



「ごめんね、こんな時間まで」
「いや、楽しかったよ」

 病室を出た頃にはもう茜空が広がっていた。恐縮するヒカリにシンジは明るく笑ってみせる。病院前のバス停で時間を確認すると、彼女の乗る方が先に来そうだった。

「委員長はこのまま真っ直ぐ帰るの?」

 ノゾミの前では洞木さん、お姉さんという呼び方もしていたシンジだったが、やはり自然と出てくる呼称はこちららしい。

「途中でスーパーに寄るつもり。色々と買わなきゃならない物があるし」
「同じだ、僕もスーパー。今日は魚が安い日なんだよね。あと洗剤も。レイが帰ってくる前に一通り綺麗にしておきたいし」
「金曜日に退院よね? 土日はゆっくり休めそうなの?」

 んー、と曖昧な声を漏らして彼は若干顔を曇らせる。ネルフでの予定があるのだろうと察せられた。
 部外者のヒカリにはそれ以上は立ち入れない。けれど、

「……レイも、碇君も、無理しないでね。学校で出来ることがあったら何でも協力するから。私の宿題でも何でも見せるし。だから……休める時には休んでね」

 ひどい罵倒までした身でありながら、それくらいしか申し出ることの出来ない自分が歯痒かった。ありがとう、という笑顔が胸に痛い。
 他に何か言えることはないかと探しているうちに、黄昏の中からバスが来た。もう別れの時かと思うと急に名残惜しさが込み上げてくる。

「じゃあ委員長、気を付けて帰って。また明日」
「うん……それじゃ」

 手を振るのもステップを上るのも躊躇を覚えたが、結局はそうしてしまう。
 ドアが閉まり、発車する。シンジが屈託なく手を振って見送ってくれる。ヒカリもバスの後ろの方に進みながら振り返した。しかしすぐに彼の姿は見えなくなる。
 一番後ろの窓際の席に腰掛けて、彼女はぼんやりと、胸の奥に湧き上がってくる感情について考えを巡らせた。



 姿を現し始めていた萌芽の名をはっきり認識したのは、その後何日も経ってからだった。



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