「でさ、一体あいつのどこが好きなわけ?」

 直球ど真ん中ストライクな質問に思わずヒカリはむせ返る。しー、しーと口に人差し指を当てて友人を制し、慌てて周囲を見回した。昼休みの教室だ、至るところに耳がある。誰かに聞かれなかったろうか。
 しかし制された側の惣流・アスカ・ラングレーは一向に気にしない様子でジャムパンにかぶりつく。

「いいのよ、どうせこのクラスの九割はもう気付いてるんだから」
「えっ……そうなの……?」

 初めて知った事実に、首から上が火がついたように熱くなる。自分の態度はそんなに分かりやすかったろうか。
 まぁ、残り一割の中に当の本人も入っているのが問題なんだけどね――とぼやいてアスカは、ヒカリと逆の側にじろりと目をくれた。

「あんたの育て方が悪いんじゃないの?」
「そうよねぇ、うちの子が鈍いばっかりに手間取らせてしまってすみません。でもあの子、いいところだってそれなりにあるんです」

 よよ、と芝居がかった仕草で嘆いてみせるレイ。どうも信じ難いと言いたげに首を振るアスカ。

「あぁ、玉の輿ってのは一応魅力ね」
「そんなつもりはないもの!」

 むきになってヒカリが言い返した途端、二人に大笑いをされた。からかわれたと知って半ば拗ね気味に卵焼きを口に放り込む。レイが自信作だと言って出してきた、紫蘇と海苔と鶏のそぼろ入り。もごもご噛んで呑み込み、不本意ながらも美味しいと伝える。それはよかったと応じるレイはまだ笑いが収まっていない。アスカはヒカリが作ってきたカボチャの煮物を頬張っている。
 ヒカリとレイとで弁当を食べていた席にアスカも加わるようになってから、もう二ヶ月ばかり経つ。転入生の彼女を気遣い、委員長であるヒカリとパイロット仲間であるレイが誘いを掛けたのだ。
 最初のうちは三人の会話はぎこちないものだった。アスカは愛想よく振る舞ってはいたが、それは本当に上辺だけのもので、ヒカリに対してはまだしも、レイに対しては時々侮蔑交じりの視線を投げ付けてもいた。何が理由だったかは分からない。パイロット同士だからこそ競争意識も強かったのかもしれないし、ドイツ育ちの彼女には日本人的な馴れ合いが嫌だったのかもしれない。
 果たしてクラスに溶け込めるのかとヒカリは心配したものだが、十日ほどもするとアスカはだいぶ砕けた表情も見せるようになったためホッとした。使徒を倒すためにレイと二人で合宿をしたことが良い方向に作用したらしい。引っ越し祝いにヒカリとレイを招待してもくれた。
 その後情緒不安定に陥った時期もあったが、今はアスカはすこぶる元気で――たまに妙にキラキラした目で独り言を言うのがやや不気味だが――ヒカリともレイとも心の垣根のない交友関係を築いている。

 そして現在、彼女ら三人の間で専ら話題を占めるのはヒカリの恋の行方である。
 相手は先程アスカの言うところの『あいつ』、レイの言うところの『うちの子』。
 ――名を碇シンジという。

「この間のクッキーの結果はどうだったのよ? 何か反応あった?」

 今度はレイの里芋の煮っ転がしを一個つまみながらアスカが問う。必要に駆られて料理を覚え始めた彼女だが、さすがに弁当を作るだけの余裕はまだない。そのためヒカリとレイが多めにおかずを用意してきて、皆でつついて食べる形になっていた。
 彼女の言う、この間のクッキーとは、調理実習で三人が作った物をシンジに食べさせ、どれが一番美味しいか選んでもらおうという企画のことだ。勿論本当の目的は、ヒカリ作のクッキーを自然にシンジに贈ることにある。
 だがレイはしかめっ面で首を横に振る。

「『こっちとこっち、どっちかがレイでどっちかが委員長だよね? 甲乙付け難いなぁ』で終わったわ。特別な素振りは一切見せず。真意なんて読み取りもしてないわね、あれは」
「私のクッキーは明らかに劣ると……? あの男、いずれシメる……! でもそれはともかく、また新たな作戦を考えないとね。何かいい案出しなさいよ」
「一つは既に準備中。発表までは少し待って」

 最近はすっかり惣流司令と綾波参謀といった風情で、シンジの関心を振り向けることに躍起だ。かえって当事者であるヒカリの方が付いていけない。ありがたいといえばありがたいが、そこまでしなくていいからと縋り付いて止めたくもある。今日もまた二人は熱く議論を交わし、ヒカリは赤くなって否定したり、必死になって擁護して笑われたりで忙しい昼休みを送ることとなった。
 午後の授業の始まりが近付き、教室の外に出ていた生徒がぞろぞろと戻ってくる。その中にはシンジも。友人と楽しげに語らっている彼の姿を目にした途端、ヒカリの鼓動が速さを増す。気付かれまいと努めてさりげなく視線を外し、自然に、自然にと自分に言い聞かせながら授業の用意を進める。
 レイが彼を呼び止めた。

「シンジの自信作の卵焼き、ヒカリがとても褒めてたわよ。私も今度作ってみようって」
「本当? 委員長に認めてもらえたんならホンモノと思っていいかな」

 机に突っ伏しそうになったヒカリに向かって、シンジは嬉々として、最初に作った時は紫蘇の風味が強すぎて云々と製作過程を語って聞かせる。くらくらしながら相槌を打つ彼女の横では、友人二人が「なかなかやるのう、越後屋よ」「いえいえ、お代官様には適いませぬ」と時代劇ごっこを繰り広げていた。





贖罪 〜彼の歩む道〜

side story 1



少女の階段 後編





「もう告白しちゃいなさい! それが一番手っ取り早い!」

 放課後、屋上に場所を移して再開された作戦会議では、早々に最終手段決行が提唱された。ヒカリに指を突き付けて迫るアスカに、レイもうんうんと頷いて同意する。

「あの分じゃシンジが自然と意識するまで何年かかるか分からないもの。はっきり言っちゃった方がいいと思う」
「全く、何て鈍いんだか。教育が悪いからああなるんだわ」
「すみません、お義母さま、お許しを!」

 今度は嫁姑ごっこ。即興で演じられる掛け合いに笑いながらも、内容にはヒカリは腰が引けてしまう。

「告白なんて……無理よぉ。絶対迷惑になるし……」

 ノゾミは先日退院し、リハビリを続けながらも学校にまた通い出した。もはや遺恨もないのだが、一度痛罵を浴びせた相手に告白するというのは何だか虫のいい話に思えてしまう。
 そもそも自分は彼と付き合いたいのだろうか。己の心に問い掛けても、ヒカリは首を捻らざるを得ない。好きだと感じることと想いを伝えたいということは必ずしも同一線上にはなく、今のところ学校でシンジを見ているだけで充分満足出来るのである。
 だが友人二人は、特にアスカは、それで納得してはくれなかった。

「駄目よ、そんな消極的じゃ! 言えるうちに言っとかないと、後でどうなるか分かんないんだからね!?」

 けしかけるというだけではない真剣さがその表情に覗く。

「こういう状況なんだから、卒業まで一緒にいられるとは限らないのよ? ヒカリだって急に疎開することになるかもしれない。それでも黙ったままで本当にいいの?」

 パイロットである彼女の言葉には重みがあった。疎開――怪我――死――ヒカリの胸にずしりと響く。レイも僅かに瞳を伏せた。

「思いっ切りぶつかって、それで後悔することになってもいいじゃない。中途半端な形のまま終わるよりはきっと……」

 熱を込めて訴えていたアスカだったが、その表情がはたと改まる。

「――よく考えたら私も、人の恋路を世話してる場合じゃなかったわ。加持さんに私の想いを本気でぶつけてこないと。ミサトより私の方が若くて可愛いんだもの!」
「頑張れ、アスカ! 骨は拾うわ!」
「縁起でもないこと言わないでよっ!」

 レイの声援に噛み付いて、アスカは屋上を駆け出て行った。勢いのままネルフまで突撃するのだろう。
 遊びに行った折にヒカリも加持リョウジと会ったことがある。無精髭や長髪からは少しだらしない印象も受けたが、確かにアスカが憧れるのも分かる男ぶりだった。しかし中学生と三十代ではあまりにも……。レイも同意見らしい。

「アスカには悪いけど多分実らないわよね……。ミサトさんとはまだお互いに好き合ってるみたいだし、若ければいいってものでもないし……」
「加持さんがOKしたらロリコンにしか見えないもんね……」

 巡り合わせが悪かったというより他ない。今から慰めの言葉を考えてしまう。
 でも、とレイが苦笑して柵に両手で掴まる。

「あのパワーは見習うべきなのかも……」
「うん……」

 眼下では運動部が練習をしている。ピアノの音とともに合唱部の歌声が聞こえてくる。どのクラブも人数が減り、活動休止を余儀なくされたところも出ていた。
 ヒカリも軽く柵にもたれる。風景の中の建物は先日の戦闘でいくつか失われてしまった。隣家のおばさんも既に遠くへ引っ越した。街も、人も、押し流されるように変わっていく。好むと好まざるとに関わらず。

「……レイはさ、本当に碇君のこと好きじゃないの?」

 グラウンドを眺めていた顔がこちらを向く。そのまま空に溶け込みそうな色の髪が揺れた。

「無理、してない……?」

 打ち明けたのはヒカリが先だ。最近様子が変だと問い詰められ、気になることがあるなら言ってほしいと申し出られて、つい尋ねてしまったのだ。
 ――レイと碇君って付き合ってるの?
 友人二人が推測を確信に変えるには、それで充分だったらしい。
 全然違うと即座に笑い飛ばしたレイだったが、ヒカリは何度も念を押すしアスカは面白がって追随するしで、半ばやむを得ずといった形で、気になる相手は別にいると教えてくれたのだ。きっかけはクラス対抗の球技大会。味方が失敗するたびにすかさずフォローの言葉を発していた隣の組の男子を、あぁ、いいなぁと感じ、以来注目するようになった――恥ずかしげにそう打ち明けてくれた。
 嘘ではないとヒカリも思う。だが、シンジと比べた時にその男子の方が比重が重いといえるのだろうか。シンジに好きな相手が出来ても本当に何とも思わないのだろうか。
 あらためて問われたレイは、うーんと唸りながら真面目な面持ちで考え込んだ。遠くに、グラウンドに、空にとゆっくり視線を巡らせ、やがてヒカリに笑顔を見せる。

「実際にヒカリとシンジがくっついたら、複雑な気持ちにはなると思う。ヒカリにシンジを取られたように思うのか、シンジにヒカリを取られたように思うのかは分からないけど……。でも二人とも私にとっては大事だから、二人でくっついてくれたらすごく嬉しくて幸せな気分にもなると思う。だからワクワクしてるのよ、私」

 それにね、と再び下を眺める彼女の横顔が恥じらいで染まる。

「やっぱりシンジはそういう相手じゃないな。見ているだけでドキドキしたり、体中がムズムズしたり、そんなふうに感じるのは……シンジじゃないから……」

 視線の先では野球部の練習が行われていた。送球をそらしてしまった仲間に、ドンマイと大きな声を掛ける部員がいる。その部員はあまり上手い選手ではないとヒカリも聞く。人数の減った状況下においても、レギュラーになれるかどうか微妙な線上にいるらしい。しかし仲間を励ますために、雰囲気を明るくするために、いつも誰より積極的に声を出す部員だった。
 彼のところにノックが飛ぶ。定位置より遥か後方への大きなフライ。懸命に走って追い掛け、最後にはジャンプしてグラブの先で捕球した。仲間がやんやと囃し立てる。

「ナイスキャッチ、って言ってみたら?」
「やだやだっ、恥ずかしいっ、無理っ!」

 手すりを揺らす勢いでぶんぶんとレイが首を振る。口元は締まりがなくなり、顔中真っ赤だ。そんな彼女にヒカリも微笑む。
 今のところレイは告白する気はないという。彼が部活に夢中ということもあるが、それだけが理由でもないだろう。ネルフの権力者が親代わりで、街を護るために戦っているパイロット――そうした立場が彼にプレッシャーを与えないか案じていることが、言葉の端々から察せられた。ヒカリがシンジに告白するのとはまた事情が違うのだ。それを踏まえた上でアスカは、二人同時に諭すつもりで先程の説教をしたのだろうが。
 練習風景を見守るレイの横顔はとても綺麗に思えた。恋をしている表情だった。
 正面の街並みの、その更に先の空をヒカリは見つめる。今は目に映らなくともそこには星があるはず。そっと願いを懸ける。

 幸せになってくれますように。
 私の大事な人達が、どうか幸せになってくれますように。





 その夜彼女は、深刻な顔をした父から一つの話を聞いた。
 誰にも相談出来ずにいるうちに問題は自然と解消されたが、胸の内には黒々とした影が差し込んだまま消えなかった。





 シンジの様子がおかしくなった。血色が悪くて元気がなく、昼休みに入るや足早に保健室へ向かう。慢性的な吐き気による食欲不振、らしい。
 『らしい』というのは、レイにしてもアスカにしても妙に説明の歯切れが悪いせいだった。病気ではなく精神的なものが原因だそうだが、入院までしているというから深刻だ。心配の言葉をヒカリが口にすると、二人は顔を見合わせてほくそ笑む。

「じゃあさヒカリ、見舞いに行ったら?」

 目論見に気付いた時にはもう遅く、勝手に作戦説明を開始される。曰く、明日の午後は体育なので、シンジは四時間目終了時点で早退するはず。病院に戻ってからはカウンセリングや点滴などを受けるのだが、学校が終わって見舞いに行く頃にはちょうど終了しているだろう。だから明日は狙いめだ――。

「二人も一緒に来てよ!」
「それが私達、明日は戦闘訓練があるの。とても見舞いなんてする余裕はないわぁ。あー忙しい忙しい」
「夜にメールで結果を聞くからねぇ? 怖じ気づいて逃げるんじゃないわよぉ?」

 高笑い交じりに半ば脅しを受けて、やむなくヒカリは承諾した。
 これからネルフに行くという二人と校門のところで別れた後、真っ直ぐ家に帰らずに神社に寄る。あの因縁のある神社だ。エヴァンゲリオンの倒れた跡は、まばらに草を生やしながらも、今も抉れた地面として残っている。ここで死にかけたのだった。ほんの僅かの差で辛うじて命拾いをし、こうして生きていられている。彼が助けてくれたおかげで。
 初詣の時よりも多く賽銭を投げ入れ、鈴を鳴らし、長い時間手を合わせた。陽光に晒された首の後ろがじりじりと熱くなったがかまわなかった。街の喧騒は遠く、代わりに蝉の声が降る。
 お守りを三つ買い求める。それで用は済んだがすぐにはヒカリは立ち去り難く、結局雲がオレンジ色に染まる頃まで境内から動かなかった。
 刻々と変わっていく空の表情も、その下に広がる故郷も、まるで初めて見るもののように心に沁みた。



 翌日。
 午前中まで机を並べていた相手の見舞いに行くというのも正直変な心地だったが、帰りのHRで配られたプリントが多少なりとも気持ちの踏ん切りを付けてくれた。レイとアスカ、そしてシンジの分をヒカリは預かる。委員長である彼女の行動を誰も訝しみはしなかった。
 レイの入院中に何度か訪れたことのある病院。あらかじめ教えられていた病室の前に立ち、あの、と声を掛けるとすぐに、どうぞ、と返事が返ってきた。少し躊躇いながらもドアを開けると、シンジが上擦り声を発した。

「えっ、委員長!? 何で!?」

 制服から患者服に着替えようとしていたところだったらしい。既に片袖を抜いていたシャツを慌てて彼は着直す。下にTシャツを着ているのだから何も恥ずかしがる必要はないはずだが、わたわたとボタンを締めていく様にヒカリも動揺を誘われ、後ろを向く。てっきり看護師さんだと思ったから、私もいきなり来たから、と急いで互いに謝り合った。

「それで、えーと、どうしたの?」

 気を取り直してヒカリに椅子を勧め、自身はベッドに腰を下ろしてシンジが尋ねる。無理もないが突然の訪問に随分驚いたようだ。これを、とヒカリはカバンから出したプリントをまず渡した。

「それと……クラス代表としてお見舞い」
「わざわざそんな気を使わなくてよかったのに。さっきまで会ってたんだしさ」

 皮肉ではなく率直な感想だろう。笑顔に嫌みのないことにホッとしつつ、彼女はお守りも取り出した。健康祈願の文字にシンジの眼差しが少し神妙になる。

「……レイとアスカの分もあるの。碇君達が無事でいられるように……」
「……うん。ありがとう」

 彼の手に載せる際に、指先が軽く触れた。心臓が一度激しく動く。
 真っ直ぐに顔を見られず、代わりに視線を置く場所を探す。するとシンジの腕にいくつも残る注射や点滴の痕が目に付いた。苦笑い交じりに彼は、ちょっと気持ち悪いよね、とお守りを握った手で隠す。

「まぁ、大したことないから」
「うん……」

 結局シャツのボタンに視線を留め、これから何を話すべきかヒカリは考える。告白というものは最初から思案の外にあり、話したいこと、いや、話しておくべきと思うことは他にあった。ただ、どんなふうに切り出すかで迷う。レイにもアスカにも言っていないことをいきなり彼に打ち明けられるだろうか。
 会話が途切れてしまったことを気詰まりに感じたか、シンジが身じろぎをし、あのさ、と何やら言いかける。彼女が少し顔を上げたその時、警報が鳴り響いた。
 びくりと身を竦め、意味もなく室内を見回す。慣れていない場所だということが不安と緊張を煽った。
 シンジに目を向けて、そこで彼女は息を呑む。このまま倒れるのではないかと思うくらい、彼の顔は蒼白になっていた。

「碇君!? 碇君、大丈夫!?」
「あ……うん……大丈夫……」

 頷きはしても大丈夫そうにはとても見えない。誰か呼ぼうとナースコールのボタンに手を伸ばしかけたがその前に、医師一人と看護師二人が飛び込んできた。彼らはヒカリの存在に戸惑いを見せ、しかしすぐにそんなことは脇にのけてシンジに避難を呼び掛ける。「避難……?」と怪訝そうに彼が聞き返す。

「招集じゃなくて……?」
「君に招集命令は出ていない。よってシェルターに避難してもらう。そちらの君も一緒に来なさい」

 職業的な威厳に満ちた口調での指示を受け、半ば反射行動のようにヒカリは頷き、カバンを抱えて立ち上がる。少し足元のふらつくシンジを両脇から看護師が支えて一塊になって病室を出ると、誘導灯の示す方へと向かった。
 シェルターはさすがネルフのお膝元だけあって、ヒカリが普段避難する場所より造りが良かった。ひがみを覚えないでもなかったが、一民間人にすぎない彼女も収容してくれたのだ、素直に感謝するべきだろう。それに今はそんな些細なことにこだわっている場合ではない。
 シンジの顔色は悪いままだったが、壁際に座らせてもらうと、自分はいいから他の人達を診てほしいと医師や看護師に訴えた。ストレッチャーに乗せられた患者も次々と運ばれてきている。血圧がどう、投薬がどうと慌ただしい処置を受けている人々に比べれば、確かに彼の状態は良好な方だろう。何かあったらすぐに呼ぶようにと言い残して、医師達は他を手伝うべく走っていった。
 シンジの傍にはヒカリだけが残る。並んで腰を下ろすが気分が浮つくどころではない。膝を抱えて張り詰めた表情で床を見ている彼をただ案じる。

「碇君、横になった方がいいんじゃない……? 毛布か何か貰ってこようか?」
「いや、このままでいい……」

 彼女のカバンには勉強道具や身の回り品くらいしか入っておらず、今の彼のために役立てられそうな物はない。シンジに至っては握ったままだったお守り以外は何も持たずにここまで来ていた。医師に言えば、必要な薬などはすぐに用意してくれるのだろうが。
 向こうで何やら騒ぎが起こった。聞こえてきた女性の声にハッとシンジが顔を上げ、ちょっと行ってくると告げて覚束ない足取りで歩いていく。遠目に見えたのはヒカリも覚えのある女性だった。赤木リツコ。お姉さんのような存在だとレイがいつも語っていた。会話の詳細までは聞き取れないが、どうやら彼女を医師達が必死に宥めているらしい。シンジもその輪の中に加わる。
 近くを通り掛かった看護師に、ヒカリは毛布を一枚貰えないかと頼んだ。不審そうな顔をされたが、シンジのためだと説明するとすぐに持ってきてくれた。
 ややあってから戻ってきたシンジは、毛布に気付いて足を止め、ありがとう、と頭を下げて素直にそれにくるまった。

「今の、リツコさんよね? 何かあったの?」
「怪我してるのに発令所に……仕事に行こうとしたんだ。でもさすがに無茶だから鎮静剤を打って眠らせて……」

 その表情が暗然としていく。本当は、と続けられた声は掠れた。

「誰よりも僕が行かなきゃ……僕が行って……」

 大きな音とともにシェルターに震動が走った。戦闘が始まったのだろうか。それもここから遠くない場所で。
 直後、シンジが床に手をついて急に激しく喘ぎ出した。額には脂汗が浮かぶ。慌ててヒカリが背中をさするが、咳き込みながら胃液まで吐き出した。尋常ではない様子に彼女が医師を呼びに行こうとすると、その腕を彼は掴んで止めた。

「いい……だいじょ……から……」
「でも……!」

 逡巡の末、ひとまず彼の意思に従う。気恥ずかしさも何も忘れて毛布の上からひたすら背中をさすっていると、やがてどうにか状態も落ち着いてきた。肩で息をしながらぐったりと壁にもたれた彼が、ごめんね、と謝ったのはヒカリに対してだけではないようだった。

「エヴァ、ボロボロなのに……僕も行かなきゃ……レイと惣流だけ……情けない……二人だけに……」

 半面を覆った彼の右手の爪が皮膚を突き破らんばかりに深く食い込む。目には涙が滲んでいた。紡がれる言葉は断片的だが、楽観出来る戦況にないことはヒカリにも分かった。シンジが戦える状態にないことも。
 爆音が低く腹に響く。壁も床も揺れ、天井から細かな塵が降った。患者や医師が不安そうな声を上げる。
 物騒がしい雰囲気。だが逆にヒカリの心は静まっていった。先程までは嵐の日の波のように千々に乱れていたのに、今は平らかに凪いでいる。口元が綻びるのを自分でも感じてしまうくらい落ち着き払っていた。こんな状況だからこそ。
 碇君、と優しく声を掛ける。

「私が代わりに行ってくる」
「……え……?」

 彼の瞳に湛えられていた苦渋が消える。唖然とさせただけであれ、一瞬でも心痛を取り除いてあげられたことが嬉しかった。

「私もね、乗れるらしいの。エヴァンゲリオンに」

 あれは先週のこと。
 沈痛な面持ちで帰ってきた父から告げられたのだ。

 ――技術部の知り合いがこっそり教えてくれた。
 ――今度アメリカから新しいエヴァが来る。実験の結果次第ではあるが……
 ――パイロットは……お前になる。

 怖いと思った。乗りたくなかった。逃げたかった。レイもアスカもシンジも見捨てて。
 そんな自分を心底ヒカリは嫌悪した。

 詳しい経緯は不明だが結局その話は立ち消えになったらしく、父は胸を撫で下ろしていた。ヒカリも安堵した。安堵したが――それ以上に罪悪感に苛まれた。
 何故進んで乗ろうとしなかったのだろう。レイやアスカやシンジを日頃から案じていたはずなのに。役に立ちたいという気持ちは嘘だったのか? 同じ立場から助けてあげられる絶好のチャンスだったのに、何故潰れたことにホッとする? 命懸けで戦っている人達のために、自分も危地に赴こうという勇気はないのか? 何て情けない人間だ、洞木ヒカリは!
 自分自身を軽蔑し、罪の意識を感じながらも、三人に謝ることも出来ずに今日まで至った。
 だが今、思う。
 贖う機会が来てくれたのだと。
 今度こそやってみせろと誰かが言っているのだと。
 きっと自分はそのために、今日ここへ導かれたのだ。

「そんな……駄目だよ、そんなの……」

 ヒカリが告げた言葉に、シンジは困惑を露わにする。

「委員長が乗るなんて……だって委員長は普通の女の子で……」

 滅多にされない女の子呼ばわりをこんな時にされたのが妙に可笑しく感じられた。

「レイとアスカと同じことをするだけよ」

 そう、いつもじゃれ合っている友人と同じことをするだけだ。勿論彼女達のように上手くは動かせないだろうが、何かの役には立てるはず。一人よりは二人、二人よりは三人だ。
 しかし、どうやって乗せてもらえばいいだろう。父に連絡すれば取り次いで……あぁ、駄目だ、携帯電話は通じない。そうだ、ここへ来る時一緒だった医師に頼んでみようか。シンジ担当の医師ならネルフの偉い人とも話が出来るはず。そうだ、それが良さそうだ。
 妙案に独り頷くヒカリを呆然とシンジは見つめている。その瞳を見つめ返しながら、彼女の胸には誇りと喜びが満ちていた。
 ――私にも出来ることがある。

「エヴァンゲリオン、使わせてもらうね」

 立ち上がり、駆け出そうとして、「駄目だよっ!」と両肩を掴まれ止められる。毛布が彼の足元に落ちた。

「……駄目だよ……委員長が乗れるとしても、それでもやっぱり……駄目だ……」

 下を向いていて表情は見えない。ただ力強い両手は彼女を捕えて離さない。
 半ば感情任せに絞り出されていた感の呟き。だが一言一言紡ぐたびに、そこに噛み締めるような響きが加わり、苦みや躊躇が消え失せていく。

「初号機は僕でないと……僕が……僕は、母さんと父さんの子供だから……」

 上げられた瞳は穏やかに澄んでいた。苦悩も焦慮も覗いていない。むしろ笑ってさえいる。
 自分を見た気がヒカリはした。シンジもまた、己が迷いなく為すべきことを見出したのだ。

「委員長はここにいて。僕が行く」
「……うん」

 我を張る真似はしなかった。自分より遥かにふさわしい人が行こうとしている。遮ってはならない。
 両手が肩から離れる。お守りをズボンのポケットに入れ、彼は走り出そうとする。

「碇君!」

 首が彼女の方を向いた。

「帰ってきてね! 待ってるから!」

 輝く笑顔を残して彼は行き――




 次の日も、その次の日も帰ってこなかった。





 ヒカリのメールに返事をくれたのはアスカだけだった。短い文面で、全員生きてはいると伝えてくれた。
 生きてはいる――その言い回しが気になって仕方がなかった。
 避難命令が解除されてシェルターから出された以上、今回も街が護られたことは間違いない。しかしおそらく何らかの被害が生じたのだ。三人のパイロットの身に関わるような。

 次の日にはアスカは、もう少し詳しいことを伝えてくれた。彼女とレイは大した怪我は負っていないが、レイが精神的にひどく参っているため、しばらく学校には行けそうにないという内容。ヒカリの不安を払拭するには到底至らない。何故アスカはシンジのことにまるで触れないのか。レイが参っているというのも、そこに理由があるのではないか。
 泊まり込みでの仕事が終わって帰宅した父にも、思い切って聞いてみた。当時ヒカリがネルフのシェルターにいたという事実に父は驚いていたが、詳しい話はやはり教えてはくれなかった。唯一漏らされたのは、全ては技術部頼み――そんな呟き。
 空席が三つ増えた教室は更に閑散とした。転校していく生徒の挨拶を聞くのもこれで何度目か。全員分のプリントもすぐに回収出来てしまう。遠くではまた工事が行われている。二つのお守りは今もカバンの中だ。
 疎開はもう、ヒカリにとってもすぐ間近まで迫った現実だった。子供や老人だけ先に避難させた家庭もたくさんある。もし父が断を下したら彼女は黙って従うしかない。わがままを言って困らせるわけにはいかない。父の決めた通りに家族と一緒に移り住み、そこでまたいつものようにご飯を作り、掃除や洗濯をし、新しい学校に通って今までとは違う人々との時間を刻むのだ。
 いつ訪れるとも知れないその日までに、せめてもう一度は会いたかった。
 アスカに。
 レイに。
 シンジに。



 何日も経って、ようやくアスカとレイが登校してきた。たちまち二人は同級生に囲まれ、もう大丈夫なのか、シンジはどうしたのかと質問をされる。アスカが愛嬌を交えつつ対応したが、シンジについてはやはり、生きている、大丈夫、と話を打ち切るように短く言い放つだけだった。一方のレイは、声を掛けるのも憚られるくらいに暗然たる面持ちだった。
 昼休みにはいつも通り三人で昼食を摂った。レイとアスカの持ってきた弁当は中身が同じで、一見してどちらの作か判別がつく高い完成度。しかし彩りには著しく欠ける。製作者の心情がそのまま表れているように思えた。賑やかにテレビの話ばかりをするアスカに、空元気と知りつつヒカリも付き合う。レイは口を利かず、美味しくもなさそうに箸を進めた。
 授業が終わると三人で一緒に下校した。初めのうちは元気にお喋りをしていたアスカだったが次第に無口になり、会話の相手を務めていたヒカリも口を閉ざす。レイは元から何も言わなかった。
 ひっそりと静かな公園のベンチに、レイとヒカリは並んで座った。アスカは軽く背をもたせ掛けてレイの脇に立つ。しばらく三人とも押し黙ったままだったが、やがてレイが初めて声を漏らす。か細く揺れる声を。

「……シンジは……当分帰ってはこないの」

 アスカも横からもどかしそうに補足する。詳しいことはどうしても話せないのだと。遠くに行ったのかとヒカリが問うと、肯定はされなかったが否定もされなかった。ある意味ではそうかもしれない――彼女らしくもない曖昧な言い方でアスカは答えた。
 大きくヒカリは息をつき、膝の上で組んだ手に視線を落とした。不安や心配に加えて、後悔が激しく押し寄せてくる。

「私が……余計な真似をしたせいかもしれない……」

 何のことかと尋ねる二人に、彼女は堰を切ったようにあの日の出来事を語り始めた。一緒に避難したこと、シンジが苦しんでいたこと、自分が乗ると申し出たこと、しかし結局彼が向かったこと……。

「私がしゃしゃり出たりしなかったら、碇君は無事でいたのかも……。私が追い込んだのかもしれない……」
「ヒカリ……」

 初めて知った事実にアスカが戸惑い、言葉を探している気配が伝わる。とても顔が上げられず、両手で覆った。溜息が後から後から零れ出て掌の内側に篭り――

「……シンジ、笑ってたんだ」

 思いがけない陽性な響きに、驚くというより耳を疑って隣を見る。つぶさに観察するまでもなく、レイのもとからは先程までの翳が消え去っていた。何やら感慨を込めて独り頷いている。

「そう、笑ってたんだ……よかった……」
「レイ……?」

 恐る恐る呼び掛けると、彼女は満面に喜色を浮かべてヒカリを向いた。

「大丈夫、シンジは帰ってくる!」
「え……?」
「あんた、いきなり何言ってんの……?」

 ヒカリのみならずアスカも訝しげに顔を覗き込むが、レイはにこにこと笑い返す。

「シンジは無理をして乗ってくれたんだと思ってたのよ。私達が不甲斐ないばっかりに」

 『達』って何よ、というアスカの抗議は聞き流された。

「でもシンジ、笑ってたんでしょ? 嫌なのに無理をして乗ったわけじゃなくて。だったら大丈夫。待ってるって言われて笑ってたんなら、きっと帰ってきてくれる」

 ヒカリには意味がよく分からない。そもそもシンジはどこにいるというのか。
 よくは分からないが……レイがそう言うのなら大丈夫かという気もしてくる。

「でも私が変なことさえ言わなかったら……」
「そしたら私達、死んでたかもしれない。シンジのおかげで助かったんだし、そのシンジを動かしたのがヒカリなら、ヒカリが世界を救ったんだわ」
「まさか……」

 首を振るが、本当だとレイは大真面目に強調する。

「ヒカリは余計なことなんかしてない。シンジだってヒカリの純粋な気持ちに応えようとしたんだと思う。帰ってくるまで少し時間はかかりそうだけど、それまで待っててあげて。きっと戻ってくるから」

 半ば勢いに押されながらもヒカリは頷いた。俄かには信じ難い部分もあるが、自分よりも彼のことをよく知っているレイが保証するのだ。多分間違いはないのだろう。帰ってくるというのなら、いずれどこからか帰ってくるのだろう。少しずつ気分が晴れ渡っていくのを感じる。
 アスカも優しい微苦笑を湛えて聞いていた。しかし、

「……何か段々腹が立ってきた。散々人の手を焼かせてきたくせに、随分あっさり立ち直ってくれちゃってさ」
「え……」

 ずいと詰め寄られ、明るかったレイの顔が焦りで引きつる。

「この世の終わりみたいな感じで、ずーーーーっと塞ぎ込んで。私がどれだけ苦労したと思う?」
「あー、うん……本当に本っ当に感謝してるわよ? アスカがいなかったら今日こうやって学校に来ることも出来なかっただろうし……」
「罰としてパフェ奢り。私とヒカリの二人分」
「えぇーっ!?」

 堪らずヒカリも声を上げて笑った。

「今月はCDを買いたいんです! せめてシュークリームと缶コーヒーでお許しいただけませんか、お代官様!?」
「ええい、うるさいうるさいっ! ワシはパフェが食べたい気分なのじゃ!」
「私はストロベリーパフェにしようかな」
「ヒカリまで!?」
「いいからとっとと奢れいっ!」
「お代官様ーっ!」

 足蹴にする真似をしながら喫茶店へ歩き出す二人に、遅れずヒカリもついていく。足取りは弾むように軽かった。





 シンジが帰ってきたらまず、お帰りなさいと迎えよう。
 それから――

 それから何を話そうか――?



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 side story2
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