コンセプトはバカンス中のお嬢様か、とだけ彼は言った。
 返事はなかったがまるで気に留めず、再び本に視線を落とす。
 後は静かな時間がたゆたう。





贖罪 〜彼の歩む道〜

side story 2



潮風の午後





 かつてはヨーロッパでも有名なリゾート地。しかしセカンドインパクトによる気候変動と海面上昇で昔日の面影は失われ、今は災禍の後も故郷に留まり続けた住民が細々と漁業を営むだけの街に成り果てた。
 だが、だからこそ彼はこの地を愛し、時間をつくっては足を運ぶ。閑静さと、ヒトの素朴な逞しさに触れるために。
 地元の住民は男のことを、どこぞの国の酔狂な金持ちとでも思っていることだろう。一般的には男の顔も名前もほとんど知られていないからだ。だが彼はその気になれば、電話一本で小国の物流を封鎖することも、対立している国同士に新たな火種を投下することも、大国の経済を混乱に導くことも容易に行えた。
 男は世界の支配者といっても決して過言ではない存在だった。

 ――表側は。

 男の別荘は丘の上に立つ。麓も海もよく見えた。
 今日のような穏やかな晴れの日の午後は、彼は二階のテラスで時を過ごす。公式の場での軍服然とした装いとは打って変わって、カジュアルなシャツとパンツを纏い、椅子にゆったりと身を預ける。風が届ける潮の香りと紅茶のふくよかな香気が入り混じるが、その奇妙な調和もまた情趣と楽しみ、今日の供に選んだ人類史の本を捲る。視線を上げれば沖には漁をする船。空と海の青が溶け合う、のどかで雄大な風景。彼にとっては至福の時間。ただ、テーブルの向かいの席には目をくれなかった。
 使用人が恭しく紅茶のお代わりを運んでくると、彼は地元の魚を夕食に用いるよう命じた。こよなく愛する別荘だが、いずれ手放すことに決めている。それまでに味覚の上でも存分に楽しんでおきたいのだ。そこまでの事情は知らないまでも使用人は畏まって承り、主人のカップに紅茶を注ぐ。そして向かいの席の手付かずの紅茶を片付け、新たなカップを用意する。これが誰のためのものか、使用人は疑問に思わないでもなかったが、勿論主人に尋ねる真似はしない。言われた通りにする、それだけだ。
 使用人が一礼して下がると彼はゆっくりと紅茶を口に含み、ページをまた一枚捲る。連綿と続いてきたヒトの営みに思いを馳せる。向かいの席にはやはり声を掛けない。
 その席には少女が座っていた。男の方ではなく、海ばかりを眺めて。異様なまでに真剣な眼差しで。
 何も知らずに傍から見た者は、少女を男の孫娘と思ったかもしれない。年齢差でいえばそれくらいである。何も知らずに傍から見る者がいたなら、の話だが。
 少女には他人の目をわざわざ楽しませてあげようという考えはない。だから大抵の場合、ここより遥か遠方の学校の制服姿のままでいる。けれども少女は風情というものをこよなく大切にしてもいるため、今日は別荘のテラスという場所に合わせて、ふわりと裾の広がった白地のワンピース、同じく白で揃えた帽子にサンダルといった清楚な雰囲気の装いだった。形から入ることで思索に良い影響がもたらされるかもしれないという期待が込められている。時折眉を苦悩で曇らせながら、ひたすら海を見つめて少女は沈思する。
 長い間言葉も視線も交わさず、それぞれの時を過ごしていた二人。しかしようやく少女が口を開いた。書き留めて、との求めに彼は億劫そうに本を閉じ、万年筆と手帳を手に取る。

       「『夏の海 寄すも返すも 違う波』」

「捻りがない」

 ぐさっと少女の胸に突き刺さる。

「情緒も斬新な観点もない平坦な句だ。俳句コーナー入選はまたも夢と終わるな」

       「いつものことながら、その尊大な言いようは腹が立つわね……。
        あの人の気持ちが少し分かるわ」

「では“僕”の口調で話そうか? ――ネタが浮かべば夜中でも会議中でも押し掛けてくる、君の強引さには負けるよ。ブルドーザーのように横暴だね。驚異に値するよ、リリスレイ」

       「麦○さんボイスを汚さないで」




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