「……ありがとう。助けてくれて」

 礼を言われる。

「何が?」
「何がって……零号機を捨ててまで助けてくれたんじゃないか。綾波が」

 当惑が覗く。

「……そう。あなたを助けたの」
「うん……覚えてないの?」

 不安げな声。

「いえ。知らないの」

 沈黙。

「多分、私は三人目だと思うから」

 沈黙。

「……三人目?」

 僅かに掠れた声。

「どういうこと……?」

 横目で彼を見る。
 引きつった顔は笑顔のようにも見える。
 絡み付くような視線。

「綾波……?」

 綾波。
 あやなみ。
 アヤナミ。

 縋り付くような声で呼ばれて、思う。





 ――鬱陶しい。










籠の鳥の物語
第1話



 〜再誕〜











 “赤木博士”が来たのは幸運だった。
 彼と別れるきっかけが出来たから。

「綾波……っ!」

 悲鳴のような叫びに振り返る気はしなかった。





 サードチルドレン。
 初号機パイロット。
 碇シンジ。
 呼び方は、“碇君”。

 ――と記憶されている。





『よかった……綾波が無事で……』

 心の底から安堵している声だった。
 無事を喜んでいた。
 「綾波」の。

 綾波。
 あやなみ。
 アヤナミ。

 落ち着かない気分。
 胸の内側がざらざらと撫で上げられる。
 不快な感触。

 綾波。
 あやなみ。
 アヤナミ。

 耳の奥に彼の声がまだ残っている。
 頭ごと洗い流してしまいたかった。




















 光。
 音。
 風。
 熱。



 それが最期だったらしい。




















「報告は受けている。身体的な異常はないそうだな」
「はい」
「記憶の移行にも問題はないな?」
「はい」
「ならいい、」

 ――下がれ。
 声ではなく肌で聞く。

「はい、」

 “碇司令”。


 ――下がれ。

 はい、“碇司令”……。


 ――下がれ……

 はい……










 剥き出しのコンクリート。
 ひび割れた階段。
 錆付いた手すり。
 張られた蜘蛛の巣。
 鍵のない扉。
 軋む蝶番。
 舞う埃。

 私の部屋。
 私の場所。
 私、の……。



 鏡の前で包帯をほどいてみる。
 元々怪我なんてしていない。こんな物は邪魔なだけ。
 出てきた顔には怪我はない。
 傷なんてない。
 何もない。

 鏡があることは知っていた。
 周りにある物も知っている。
 水の入ったビーカー。
 薬。
 ひび割れた眼鏡。

 知っている。
 “碇司令”の眼鏡。





 起動実験。
 異常の発生。
 暴走。
 排出。
 衝撃。
 静止。
 落下。
 衝撃。
 血。
 失いかけた意識。
 音。
 光。
 影。
 眼鏡を掛けていない顔。

『レイ、大丈夫かっ!? レイっ!?』

 首肯。

『そうか……』

 笑顔。

 ――絆。





 眼鏡を手に取ってみる。軽い。
 両手で包むように持つ。
 大事なもの。
 私の両手の中にある。



 包んだ両手に力を込める。



 ミシミシと音を立てて、軋む。歪む。壊れかけていく。
 そう、壊れる。壊れるの。
 もうすぐこれは壊れる。
 壊れたらこれはただのガラスと金属の破片。
 眼鏡じゃなくなる。
 壊れるの。

 手が痛い。でも大丈夫。
 もう少し。あと少しだけだから。

 軋む。
 歪む。
 もう少し。
 もう少しでこれは壊れる。
 もう少しで……







 ぽたり、と水が落ちた。







 ……水。
 熱い水。
 私の目から、流れていく。

 ……涙?

「これが、涙?」

 初めて見たはずなのに。
 ……初めてじゃない気がする。

「私……泣いてるの?」

 何故……?
 何故泣いてるの……?



 涙は手に落ちた。
 咎めるように。
 ぽたり、と。

 ぽたり、ぽたり、と落ちていった。



 ……何故私は泣くの?
 何故……?

 咎められることなんてしていない。
 私は咎めたりしない。
 この眼鏡を壊したって、私はかまわないんだもの――。



 これを大事にしていたのは「私」。私じゃない。
 これを絆の象徴にしていたのは「私」。私じゃない。
 これをエントリープラグにまで持ち込んでいたのは「私」。私じゃない。
 全部「私」。「私」。「私」。「私」。
 私じゃない。
 私じゃない。

 この部屋は私の部屋じゃない。
 ここに住んでいたのは「私」。私じゃない。
 ビーカーに水を入れて置いていたのは「私」。薬を置いていたのも「私」。
 この冷蔵庫を使っていたのは「私」。このベッドで寝ていたのも「私」。
 「私」。「私」。「私」。「私」。
 どこに何があるかは知っていても、私の買った物はない。私の使った道具もない。
 この部屋は私の物じゃない。
 私は「帰って」きてはいない。
 制服だって「私」の物。包帯は病院で巻かれた物。
 私の物は一つもない。
 全部、全部、「私」の物。





『綾波』

 あれは「私」に向けられた物。
 あの声に込められた情感は、「私」に捧げられた物。
 だから不快。不愉快。聞きたくない。

        私ハコレダケノ物ヲ得テイタノヨ。
        イイデショウ?

 「私」に自慢されているみたいで、聞きたくない――。





『そうか、よかった……』

 記憶の中にある笑顔。
 「私」に向けられた笑顔。
 私には見せてくれなかった。
 見せてくれなかった。
 見せてくれなかった。

        ダッテ、アレハ私ダケノ物ダモノ。
        アナタガ見ラレルワケナイデショウ?
        アノ人ハ私ノ無事ヲ喜ンデクレタノヨ?
        私ガ死ンデアノ人ガ喜ブワケナイデショウ?
        私ガ死ンデ生マレタアナタニ、アノ人ガ笑ッテクレルワケナイデショウ?

 やめて……。
 やめて、やめて、やめて……。

 こんな眼鏡、いらない。
 「私」の絆なんていらない。
 私の物じゃない、こんな物いらない。
 いらないのに。
 いらないのに私は……

 私は泣いている……。



 きっと「私」なら、眼鏡が壊れることを嫌がる。壊したくないって泣く。
 だから、泣いているのはきっと「私」。
 私じゃなくて「私」。



 涙さえ、私の物じゃない……。





 眼鏡を壊すことさえ、私は許してもらえない……。







 ぽたり、ぽたりと落ちる涙。
 初めて見たのに、初めてじゃない気がする物。
 私の知らないところで「私」は泣いたのかもしれない。



 ぽたり、ぽたりと落ちる涙。
 この中に私の涙も混じっていてほしかった。
 一滴だけでも、いいから……。





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 二人目のレイはアルミサエル戦で死にました。死にたくはなかったことでしょう。
 でも、それならレイは、三人目として蘇ることを望んでいたのでしょうか?
 二人目としての生は終わっても、三人目として新たな生を始められるなら、それは嬉しいことなのでしょうか?

 二人目と三人目の魂は同一だということに異議はありません。しかし、一度確かに死に、他者の手によって新たな体で復活し、二人目の時の記憶の一部や感情などを失っている(あるいは忘れている)状態――それは本当に同一人物として扱っていいものでしょうか? 二人目と重ねられることを、三人目はどう思うのでしょうか?

 そうした疑問からこの話を書き始めました。「三人目の綾波レイ」を私なりに描いてみるつもりです。

 今後更にイタさが増していきますが、それでもいいという方はどうぞお付き合いください。





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