他に客のいないコンビニの、がらんとした棚の隅で、まるで置き忘れられたかのようなそれが目を引いた。
 何を買うとも決めていなかったけど、見た瞬間、これを買いに来たという気がした。

 精算して店を出て、マンションへの道を戻る。
 市外へ向かう車は何台も見かけても、街を歩く人影は私以外見当たらなかった。

 零号機の自爆は第三新東京市にも著しい被害をもたらし、都市機能や物流を麻痺させた。
 次々と一般市民が疎開していく。
 営業している店はもう稀。さっきのコンビニも、明日で閉店すると張り紙にあった。
 食料品はネルフから配給されている。飲食自体には支障がない。
 必要に迫られての買い物ではなかった。

 右手に提げたビニール袋の中で、品物が揺れて軽い音を立てる。
 ハンカチ。
 白の無地と、紺の無地。
 二枚あるから、どちらかを洗って干している間も、もう一方は持っていられる。
 ――初めて手にした、私の物。

 そう思った直後に、私が死んだら次の「私」が使うことに気付いて、心臓の辺りがズシリと重くなった。





「……赤木博士が、お前のスペアを破壊した」

 その時湧き上がった感情が、何という名の物だったかは分からない。

「お前の代わりは、もういない」

 いない。
 次の「私」は現れない――。

「……体を厭え」

 サングラス越しに“碇司令”の目を見返しながら、私は別の光景を見つめていた。



 オレンジ色をした世界。
 そこに無数の私が漂っていて、制服を着た私も佇んでいる。
 二重写しとなった光景。
 スペアという単語から浮かんできたのがそれだった。

 「私」がガラス越しに見た物と、私がガラス越しに見た物。
 「私」の見た私と私の見た「私」。
 「私」の記憶と私の記憶。

 移された記憶と模糊とした記憶。二つの記憶は重なり合って私の頭の中で像を結ぶ。
 記憶同士はせめぎ合っていないし、不快な感覚でもない。
 ただ、奇妙さだけは自覚していた。

 どちらの記憶でも“碇司令”は、「私」の隣で私を見ていた。










籠の鳥の物語
第2話



 〜彼我〜











「ハーモニクス正常。問題ありません」

 三人目の私が、三度目に受けるシンクロテスト。滞りなく進んでいた。
 オペレーターが数値を読み上げ、現在責任者の任を担っている“副司令”が指示を下していく。
 一度目、二度目との差異はある。
 それは私によるものではなく、

「……このデータに間違いはないな?」
「全ての計測システムは正常に作動しています」
「MAGIによるデータ誤差、認められません」
「よもやコアの変換もなしに弐号機とシンクロするとはな……」

 フィフスチルドレン。
 今日着任したばかりの、パイロット予定者によるもの。

 動揺や緊張の混じった声を、半分言葉、半分音として聞きながら、私は自分の仕事を続ける。
 実験用プラグとのシンクロ。
 零号機自体はもうない。「私」とともに熱と化した。
 残っているのはただのデータ。ただの残滓。
 それでも、シンクロ率自体は「私」と「零号機」が記録した率とほぼ同じらしい。
 どこまでも、私は「私」をなぞっている。





 鬱々とした気分が知覚を鈍らせたのかもしれない。
 エスカレーターの降り口に人がいることに気付いたのは、その足が視界に入り込んでからだった。
 ハッとなって顔を上げて、まず目に付いたのは、笑顔。

「君がファーストチルドレンだね?」

 温かさは感じなかった。けれど冷たいとまでは感じなかった。

「綾波、レイ」

 何らかの愉悦を含んだそれは、私に向けられているようで、そうでもないと思えて。
 測りかねているうちに言葉が続く。

「君は僕と同じだね」

 ……同じ?

「お互いに、この星で生きていく体はリリンと同じカタチへと行き着いたか」

 リリン。聞き慣れない単語。
 でもそれより知りたいことがある。

 ――同じって何?

「……あなた、誰?」
「フィフスチルドレン。渚カヲル。さっき一緒にシンクロテストを――」
「誰なの?」

 フィフスだと名乗った少年は目を瞬かせた後、今度こそはっきり私に向けて微笑んだ。

「失礼、はぐらかしたつもりはなかったんだけど。でも、そうだな……」

 視線を宙に漂わせてから、愛嬌のつもりか、笑顔のまま首を傾けてみせる。

「今は言えない」
「ふざけているの?」

 一方的に喋って、謎めいた言葉を振りまいておいて、『今は言えない』?
 同じって何?

 私の苛立ちをやんわりと受け流すように、彼は笑みを深める。

「今言ってしまうと、僕の目的に支障が出かねないからね。もう少し待ってもらえるかな?」
「都合が良すぎるわ」
「明日」

 非難にも素知らぬふりで、また一方的に告げてくる。

「明日になれば分かるよ」
「…………」

 値踏みするように彼を眺める。
 敵意や邪気は感じられない。でも、それだけ。
 何を考えているのか読み取れない。読み取らせようとしない。
 笑顔という名の防壁が張り巡らされていた。

「明日になれば、僕が言わなくても君には分かるかもね」
「……そう」

 これ以上追及しても無駄だろう。彼はきっと口を割らない。
 その横をすり抜ける。案の定、引き止められることはなかった。

「……あ」

 ゲートの先で声が上がった。“碇君”だった。長椅子に腰掛けたまま、怯んだように顔を引きつらせている。
 ここで何をしているのか疑問に思ったけど、突き詰めて考えはしなかった。
 ただ、シンクロテストの前後などに出くわすたびにこんな顔をされるのが、少し煩わしかった。
 綾波、というねっとりとした呼び声の次がこれ。いちいち気に触る。

 ……あぁ。もしかすると、知ったのかもしれない。
 “赤木博士”が私のスペアを破壊した時にでも。私のことを、より深く。

 その可能性に気付き、彼を見つめ直したら、ぎこちなく視線をそらされた。
 別にいい。知られているなら知られているで。どちらにしたって、どうでもいいこと。
 彼にはもう目をくれず、私は出口に向かう。彼にも引き止められることはなかった。
 地上に出るリニアに乗る頃には、私の頭の中は元の疑問で占められていた。





同じって、何?





 部屋に戻ると、電気もつけずにベッドの上でうつ伏せになった。
 あらためて整理がしたかった。

 ――私、何故ここにいるの?

 「私」の部屋への抵抗感も、何日か住んでいるうちに薄れてきた。
 それでも、「私」の物を新しく使うたびに嫌な気分になる。

 ――私、何故また生きてるの?

 死んだ記憶はない。生まれた記憶もない。
 あるのはただ事実だけ。
 「私」の記憶が途中で切れて、私がこうして生きている。その事実だけ。

 ――何のために? 誰のために?

 そう求められたから。
 “碇司令”に、そう求められたから。
 私は生を継がされている。

 フィフスチルドレン……あの人、私と同じ感じがする。
 どうして?

 同じって何?

 何が同じだというの?

 外見が違う。私のスペアのはずはない。
 同じパイロットということ? 違う。“碇君”には別に何も感じない。
 同じ……瞳。赤い瞳。異質な色。
 愉悦を含んだ瞳。

『君は僕と同じだね』

 同じ……

 ……作られた、存在?



 抱えていた欠片が一つの形を成した。
 そう……それなら符合する。



『今は言えない』
『僕の目的に支障が出かねない』

 目的。作られた目的。ヒトに望まれ、求められている物。
 私が“碇司令”のために存在させられているように、彼も誰かの目的のために存在している?
 だから、ここに来た?

『明日になれば分かるよ』

 明日……。
 明日、何が分かるの?
 何があるの?

 体を起こし、ベッドの上で膝立ちになる。
 胸が騒ぐ。
 窓の外で風が鳴った。私の内側が呼応する。
 ざわりと何かが這い寄るような、どこかへ這い出るような感覚。
 数キロメートル離れた場所にいる人間の息遣いさえ聞き取れそうな、そんな感覚。

 ――明日。
 明日で変わる。そう感じた。
 何が変わるのかも分からないけどそう感じた。







 夜が明けるとネルフ本部に向かった。
 ゲートをくぐり抜けた先は、昨日彼と話した場所。
 エスカレーターを降り、セントラルドグマへの通路を辿る。
 目的は不明でも、彼がどこに現れるか見当はついていた。

 ――地下。

 どんな行動を取るにしても、最後にはきっとターミナルドグマを目指すはず。
 あそこにはサードインパクトの鍵とされるモノがあるから。
 磔にされた白い巨人――

 ドクン。
 不意に心臓が激しく動いた。

 ドクン。ドクン。ドクン。
 胸全体を揺さぶるような荒々しい鼓動。
 何……?
 何なの……?
 苦しい。堪らず壁に手をついた。
 目の前が霞み、代わりに頭の中に一つの光景が浮かんでくる。


 そこは、ターミナルドグマの最深部だった。
 磔にされた白い巨人。その前で「私」は零号機に乗って槍を構えていた。
 巨人は仮面を着けている。
 仮面の目。その奥にある目。
 槍を突き刺す。白い胸に吸い込まれる槍。
 痛い。
 痛い。痛い。イタイ。イタイ――。


 心臓が独りで暴れ続ける。
 呼吸が乱れ、脂汗が滲み、立っていられなくなって膝を折る。
 これは……何……?

 巨人の姿が私の脳裏いっぱいに広がっている。
 私の中を侵食していく。
 内側を食い荒らして皮膚の外へ出て行こうとする。
 このイメージは何……?
 無表情に私を見つめている、このイメージは何……?


 仮面の奥の目を、私は知っている気がする。
 奥にある目は……
 その目は……


 鋭い不穏な音が、私の意識を引きずり戻した。仮面のイメージが消えて途端に体も楽になる。
 ――警報。
 フィフスが動いた。行かないと。急がないと。立ち上がって一度深呼吸をしてから駆け出す。
 退避を促すアナウンスが流れた。セントラルドグマを緊急閉鎖……真っ直ぐこちらへ向かっているということ?
 隔壁内に閉じ込められてはいけない。道を変える。一部の者しか知らない道へと。
 エレベーターが見えたその時、大きな揺れに襲われた。バランスを崩して転倒する。
 轟音。破壊音。隔壁を強引に突破している?
 迷った末、私はエレベーターではなく音のした方へと走った。
 何が起きているのかを確かめたかった。

 吹き抜けに行き当たる。エヴァさえ呑み込める巨大な縦穴。「私」が零号機で下りたこともある。
 下から更に轟音が聞こえた。振動で落ちないよう注意しながら覗き込む。
 遠くに赤い影の揺らめきが見えた。
 弐号機?
 そう、弐号機で隔壁を破壊しながら進んでいるのね。彼なら動かせるのだし。

     搭乗スルマデモナク。


 ――え?


 私、今……何て続けた?
 ごく当たり前のように、何を思った?
 私……何を……

 上から響いてきた音で自失を解かれる。
 何かが下りてくる。
 考えるまでもない、初号機に決まっている。弐号機を、フィフスを止めるために来る。
 もうすぐここに到達する。急いで後ろに下がり、衝撃に備えて柱に掴まった。
 耳をつんざく音。吹き飛ばされそうなほどの風。紫色の脚が見えてくる。
 初号機が降下していく。弐号機を、フィフスを追って。
 風が収まるのを待って、私は柱から手を離し、螺旋の階段を駆け下りた。
 エレベーターまで戻りたくない。彼らと繋がっているこの空間から離れたくない。
 息を切らせながら駆け下りる。

 閃光が走って吹き抜けを照らす。
 金属のぶつかり合う音がする。
 きっと戦闘が始まった。

 焦りが膨らむ。このままだと間に合わないかもしれない。
 見届けられないのは嫌。私はまだ、何も分からないでいる。
 どうしよう。エレベーターを使う? でもそれだと、音さえ遠くなってしまう。
 どうしよう。この空間から離れられないのに、階段を使っていたら時間がかかる。
 いっそ、飛び降りてしまえたら――



     降リレバイイ。



 ……足が止まった。
 意識せずに紡いだ言葉に、今度は驚きはしなかった。
 常識の枠外であるその行為が、ただ一つの正答に思えた。


 そう。
 降りればいい。


 螺旋の内側に歩み寄る。遥か下まで続く穴を見つめる。
 片足を穴の上に乗せる。
 虚空を踏みしめるように、残った足も穴に乗せる。

 落下は、しない。

 私の体は落ちていかない。
 緩やかに穴を降りていく。
 もっと速くと念じればその分だけ速く。
 私は穴を降りていく。


 疑問に思うべきことはたくさんあるはずなのに、考える気は起きなかった。
 急いでいるせいだけじゃない。疑問に思う必要はないのだと、どこかで私は理解していた。
 蝉は教えられなくても鳴ける。魚は教えられなくても泳げる。
 教えられなくても出来ることが私にもあった――きっと、そういうこと。


 壁があった。
 目には見えなくても感じた。厚い壁の存在を。
 邪魔をしないで。私は行くの。
 消えて、と念じるまでもなかった。壁の抵抗は脆くも崩れ、私はそれを通過する。
 下へ、下へと降りていく。

 見えた。初号機と弐号機。
 フィフスは……いない。行ったのね。ヘブンズドアの向こう側へ。
 もつれ合って戦う二体を尻目に、そちらへ飛んだ。
 彼も宙に浮いていたことは不思議でも何でもなかった。地に足を着けていた方がむしろ驚いたかもしれない。
 私が来たことに気付いていないのか、注意を払う必要を感じていないのか、彼は一心に白い巨人を見つめている。
 声をかけて、関心をこちらに向ける気にはならなかった。
 サードインパクトが起きるなら起きるで、別にいい。しばらく静観しようと、彼を見下ろす位置に立つ。
 小さいはずの呟きがはっきり耳に届いた。

「アダムより生まれし者は、アダムに還らねばならないのか。ヒトを滅ぼしてまで……」

 アダム――。
 体の内側に震えが走る。
 何故かを考えるより早く、フィフスの驚愕の声を聞く。

「違う、これは――」







     リ   リ   ス







 ……あぁ。
 そうだったわね……。





 私は……










 私、は……










 赤い巨体が倒れてきた。
 頭部にプログナイフの刺さった弐号機。もう動く気配はない。
 踏み越えて、初号機が姿を現す。
 フィフスは逃げない。抵抗する素振りも見せない。
 伸びた手が易々と彼を捕らえた。

 ――死ぬ。

 直感する。
 彼は死ぬ。死ぬつもりでいる。

 死のうとする側が悠揚と語り、殺しに来た側が何も語れず沈黙する。
 フィフスの声だけが広い空間に響く。

「君は、死すべき存在ではない」

 ふと彼は顔を上げ、私に向かって微笑みかけた。

 そう。それがあなたの出した結論なのね。
 あなたの選んだ道なのね。



『分かるよ』


 ええ。
 確かに分かったわ。


『僕が言わなくても君には』


 ええ。
 その通りだった。

 あなたの言う通り、分かったわ。



 分かったということはきっと彼に伝わった。
 最初から私のことなど見もしなかったように、初号機に視線を注いでいる。
 そしてあらためて求める。
 殺せ、と。





 私は凝然と見届けた。
 LCLの湖に飛沫が上がり、さざなみが生まれてやがて消えた。





 だらりと下がった右手から、赤い液体が一滴落ちる。
 初号機はまだ動こうとしない。
 その向こうへ私は目を遣った。

 最後の使徒が今、死んだ。
 アダムより生まれし者は滅んだ。

 分かる。

 終わりの時が訪れる。

 もう間もなくやってくる。

 見つめる。
 初号機の向こうにある姿を。
 仮面に覆われた顔を。

 リリス。

 あれは、
 あれが、





 わたし。





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