規則的な機械音。
 鼻をつくのは薬品の匂い。
 青白い部屋。
 303病室。

 “セカンド”は眠り続けている。
 その顔はベッドの反対側に向けられていて、私の位置からは窺えない。

『今頃、夢でも見てんじゃないの?』

 そんな会話が存在した。

『夢……?』
『そう。……あんた、見たことないの?』

 “セカンド”は眠り続けている。
 どんな夢を見ているのか。
 夢も見ないほど深い眠りの中にいるのか。

 しばらくその背を見つめてから、私は踵を返し、ドアへと向かった。

 ここに来たのは、彼女が私の心に何らかの波を起こすか確かめるため。
 結果は、否。
 彼女を見つめていても私の心は波打たなかった。
 彼女は私を縛らない。
 私に何ももたらさない。

 病室を後にする。
 多分もう、ここに来ることはない。










籠の鳥の物語
第3話



 〜慟哭〜











 最後の使徒が死んだ時、私はターミナルドグマにいた。
 自分の意志で。
 そのことについて“碇司令”は咎めなかった。
 ただ、

「……思い出したのか?」

 初号機の洗浄を共に眺めながら、そう尋ねてきた。

「はい」

 フィフスが最後に残した物も、水で洗い流された。
 排水溝に呑まれて消えて、後には何も残らなかった。

「終わりの時が来る」

 独り言のように“碇司令”は呟いていた。

「……もうすぐだ」

 私は返事をしなかった。





 病院の窓から見える外は、夕焼けの色を帯びていた。
 あと何回、日が沈むのを見るのかしら――歩きながらそんなことを考える。

 終わりの時が来る。
 私はこのカタチを保てなくなる。
 わたしに戻ってリリスとなる。
 その時に“碇司令”は願いを叶えるつもりでいる。


 でも、何故それに私が従わなければいけないの?


 望んで「綾波レイ」になったわけじゃない。
 作ってくれなんて頼んでない。
 恩義なんて感じてない。
 情愛なんて持ってない。


『レイ、大丈夫かっ!? レイっ!?』
『そうか……』

 ……あれは「私」であって私じゃない。


『私が信じてるのは、この世で碇司令だけ』

 そんなの私には関係ない。


 彼に従う義理なんてない。
 彼の願いなんてどうでもいい――

 ジクリ、と胸が痛んだ。
 ……「私」、ね。

 “碇司令”に反発するのが、そんなに辛いの?
 そんなに彼が大事なの?
 でも黙っていて。今の私は私なの。あなたじゃない。あなたは死んだの。いないのよ。
 私を支配しようとしないで。

 決定権は私にある。
 アダムを宿していたところで、彼はヒト。力を自由に出来るわけじゃない。
 願いを叶えるも叶えないも私次第。
 その気になればすぐにでも、ヒトを滅ぼすことも出来る。


『君は、死すべき存在ではない』


 ……ジクリ、とまた胸が痛んだ。
 これは多分……私の痛み。

 私がヒトを滅ぼしたら、フィフスは悲しむのかしら。
 彼に気を使うつもりはないけど、ヒトをどう思っていたのか、聞いておいてもよかったかもしれない。
 ヒトを滅ぼしたい理由も、滅ぼしたくない理由も、私は持っていないから。

 ……皮肉ね。

 ヒトを生み出したのは私なのに……。





 地上への出口に通じるエレベーターに乗る。
 マンションに戻ったら、荷物をまとめないといけない。明日からは本部での生活が待っている。
 そう何日も、続きはしないだろうけど。
 上昇していたエレベーターが途中で止まった。乗る人がいるらしい。
 開のボタンを押そうとして、扉の向こうにいた人物を見た瞬間にその手を止めてしまった。

 “碇君”だった。

 顔を強張らせて固まっている。
 思いがけず出くわしたことを、彼も喜んでいないのは明らかだった。

 ……宙で止まったままの手を強いて伸ばし、ボタンを押す。
 別に、意地の悪い真似がしたいわけじゃないから。
 でも“碇君”は乗ろうとしなかった。足を踏み出すことを躊躇している。
 乗らないなら乗らないでいい。その方がありがたいもの。
 ボタンから手を離すと、待ちかねていたように扉が閉まっていく。

「――待って!!」

 急に切迫した声を上げて“碇君”が突進してきた。
 驚き、反射的に私の手が動いたけど間に合わず、彼の右腕は両側から挟まれた。

「いてっ! あ、あははっ……はは……」

 再び開いた扉から乗り込んできた“碇君”は照れ笑いを浮かべ、私と目が合うと虚ろなそれにした。
 顔を伏せながら奥の方へと歩いていく。私は無言で閉のボタンを押した。
 エレベーターが上昇する。
 話をする気はなくて、私は階数表示だけを見ていた。
 “碇君”も話し掛けてくることはなかった。
 降りる時まで、ずっと。



 エスカレーターで上がる。

 ゲートをくぐる。

 出口に向かう。

 道が一本なため、エレベーターを降りてからもずっと私と“碇君”は一緒だった。
 彼は相変わらず私の後ろにいる。
 会話もないまま、その姿も見ないまま、でも私は彼と一緒に歩かざるを得なかった。

 うんざりしてきた。

 このまま同じリニアに乗り、途中まで同じ道を帰る――億劫で堪らない。
 “碇君”を先に行かせてしまおう。彼をやり過ごしてリニアを一本遅らせて帰ろう。
 道を譲ろうと右側に寄りかけたその時、

「あの……明日から本部に泊まり込みだってね……」

 私の考えを見越したかのタイミングで話し掛けられた。

「…………」

 思わず唇を噛み締める。
 無理に絞り出したような声。彼も彼で、この気詰まりな空気をどうにかしたかったのかもしれない。
 嬉しくも何ともなかったけど。
 彼に聞こえない程度に溜息をつき、仕方なくそのまま歩き続ける。

「街が壊れたから仕方ないんだけど……でも、何だか……」

 次の一言は、ポツリと落ちた。

「何だかもう、戻れない気がして……」

 私は何も応えなかった。
 暗い話をしたせいだと思われたのか、ごめん、と小さく謝られる。少しの間沈黙が続いた。

「……綾波、荷物はどれくらいになりそう?」
「……さあ」

 明確に質問の形を取られては無視するわけにもいかず、おざなりな返事をする。
 私の荷物――大していらない。あと何日もないのだし。
 ハンカチさえあれば、それだけでも私はいい。

「……よかったら、だけど」

 後ろからの声の調子に、何らかの期待が混じった。

「紅茶……持ってこない?」
「紅茶?」

 唐突に出てきた単語を怪訝に思い、振り返ると、“碇君”も臆したように立ち止まった。
 それから、ぎこちなく口元だけで私に笑いかける。

「紅茶の葉……綾波の部屋に、あるよね?」

 記憶が検索される。
 紅茶の葉。そう、確かにある。記憶のページ上に存在している。
 ――そのページが開かれたと同時に、彼が何を求めているのか漠然と理解した。

「……前に、綾波の部屋にお邪魔して、一緒に飲んだことがあるんだ」

 やや上目遣いの、媚びたような目付き。

「入れるの上手ね、って……暖かい、って……」

 ――受け止めるのは、愉快な気持ちでは決してなかった。

「そう言って……くれたんだよ?」
「知ってるわ」

 でも、



「だから何?」



 表情が凍りつくとは――こういうことかもしれない。
 上目遣いも笑みもそのまま“碇君”に残っている。
 けれどさっきまで滲んでいた淡い期待感は掻き消え、ぽっかりと暗い穴が覗いていた。

 いい気味。そう思う。
 同時に、ここまで傷付けるつもりはなかった、とも思う。
 会話を終わらせたいだけだった。
 紅茶だの何だのと、うんざりする話を続けさせたくないだけだった。
 拒絶はしたかった。それで彼がどう思うかまでは考えなかった。

 ……どうしたらいいのか分からない。

 何か、言うべきなのかもしれない。
 でも何を? 何を言えば――


 思考を切り裂いたのは突然上がった咆哮だった。


 鼓膜が痛いくらいに震える。咆哮としか言いようのない絶叫。
 たじろぐ私の眼前に“碇君”が迫る。その顔は禍々しく歪み、両目はギラギラと獰猛な光を放っていた。
 心底が凍え、咄嗟に身を引こうとした。でもそれより早く、彼の両手が伸びてくる。
 指が私の首に食い込んで、ぎりっ、ぎりっ、と音が聞こえそうなくらいに絞め上げる。
 首から上が、火がついたみたいに熱くなった。

 いた、い……くる……し……。
 や……め……。

 息が、出来ない。
 声が出ない。
 喉が指で突き破られそうだった。

 指を外そうとした。
 鋼のようでびくともしない。

 足を暴れさせて抵抗を試みる。
 その力も抜けていくのが分かった。

 このままだと死ぬ。薄れる意識の中で警告が鳴る。
 こうなったらATフィールドで――。
 苦痛で半ば閉じかけていた瞼をこじ開け、拒絶を彼に向けようとした。


 ――泣いていた。


 首を絞める彼は泣いていた。
 死ね、死ね、死んでしまえ、と私にありったけの憎悪をぶつけながら泣いていた。
 死ね、死ね、死んでしまえ、と泣いていた。
 憎しみに燃える目が。
 涙に濡れた目が。
 私に。
 消えろ、消えろ、消えてしまえ、と――。

 頭の中で、何かが弾けた。







                バアさん


                               少し気持ち悪かった……かな


           初めて触れた時は何も感じなかった


                             大きなお世話よ、バアさん


   だってあなた、バアさんでしょ


                      碇君の手


                                バアさんはしつこいとか


              あんたなんか


                                          暖かかった


    所長がそう言ってるのよ


                           バアさんは用済みだとか


          私を心配してくれる碇君の手が


                        あんたなんか


                                       嬉しかった


 もう……一度


            死んでも代わりはいるのよ


                                   触れてもいい?


                   私 と 同 じ ね








 ……涙が頬を伝った。
 私の目から溢れて、零れた。
 頬が涙で濡れていった……。

 ビクリ、と首を絞める手が震える。
 枷が緩み、気道に空気が入ってきた。尻もちをついて横向きに倒れながら激しく咳き込む。
 視界は明滅し、胃液が逆流する。痺れたようになっている手足を滅茶苦茶に動かして喘いだ。
 まだ絞められている感じが残っていた。

 永久に続くかに思えた苦痛。
 やがてそれも、少しずつ治まってくる。

 息を吸って吐くという感覚を、思い出した。何度も何度も呼吸を繰り返す。
 黒い霧がかかっているようだった視界が晴れていき、指先に力を入れると何とか意思通りに動いた。
 床に両手をついて全力で押し、半身を起こす。
 ズキズキとした痛みを覚えながら、ゆっくりと、首を回した。

 ……彼は、床の上にぺたりと座り込んでいた。
 呆然と見開かれた両目は今も涙に濡れている。

 私達は無言で向かい合った。
 虚ろな瞳。
 私は彼を見ていたけど、彼は私を映してはいても見てはいないのかもしれない……。

 その右腕に目が止まった。エレベーターに挟まれた痕が、まだうっすらと赤く残っている。
 両手で床を漕ぐようにして、膝立ちのまま彼に近付いた。



 痛く、ない……?
 力を入れてしまって、痛んでいない……?
 だいじょう……ぶ……?



 二歩も、進めなかった。
 ひっ、と息が漏れるような声を立てて彼が後ずさる。
 その顔は恐怖で彩られていた。

「あ……の……」

 怯えないで。
 安心して。
 脅かしたりしないから。
 そう伝えようとした。手を、伸ばそうと……

「うわああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 足を滑らせながら必死に後ろを向き、カバンを掴んで前のめりに立ち上がって彼は駆け出した。
 逃げ出した。
 私から。

 呼び止めることも、追い掛けることも……出来なかった……。





 涙は、流れ続けていた。
 見えなくなった姿を見続けながら、拭いもしないで私は、涙を流し続けていた。

 脳裏を巡るのは二つの情景。
 二人の人。
 奥底から浮かび上がってきた、記憶。





 あれは赤木ナオコ博士だった。
 憎悪をたぎらせて首を絞めていた。……「私」の、首を。
 前後の状況は分からない。あんな記憶は受け継いでいない。
 それでも、確かに存在した時間に違いなかった。
 きっと一人目の「私」は、ああやって彼女に殺された。
 彼女を傷付けて……殺された。

 もう一人は“碇君”……“碇君”だった。
 これも前後の状況が出てこない。受け継いだ記憶の中にない。
 だけど、

『もう……一度、触れてもいい?』

 二人目の「私」は、とても優しい声をしていた……。
 柔らかで甘い声だった。
 どの記憶の中にもないくらいに。

 きっと“碇君”も、そんな声を返してくれた。

 「私」と“碇君”の間には、そんな時間が存在していた。





 ……涙が溢れて、止まらない。





『紅茶……持ってこない?』

 口元だけででも笑おうとしていた。

『入れるの上手ね、って……暖かい、って……』

 失った時間を取り戻そうとしていた。

『そう言って……くれたんだよ?』

 なのに私は……





『だから何?』





 ……ごめんなさい。
 ごめんなさい、
 ごめんなさい、
 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。
 ごめんなさい……。

 ごめんなさい、
 ごめんなさい、
 ごめんなさい、
 ごめんなさい。

 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 ごめ……い……。
 ……ごめんなさい、
 ごめんなさい、
 ごめんなさい、
 ごめんなさい、
 ごめんなさい、
 ごめんなさい。
 ごめんな……い……。





 <Back | Next>
 小説一覧へ   HOME





inserted by FC2 system