私、何故生きてるの?

 人をたくさん傷付けて。
 何のために生きてるの?

 私が生きてどうなるの?

 この生に一体……意味なんてあるの……?










籠の鳥の物語
第4話



 〜終焉〜











 ベッドに腰掛けて、自分の影を見下ろす。
 電気は点けていない。影をつくるのは月の光。
 暗く、明るい、蒼闇の世界。

 首が痛い。
 まだ断続的に痛みが走る。
 忘れさせまいと、痛みが走る。

 大丈夫。忘れないから。
 忘れたりなんか、しないから。

 立ち上がって、窓を振り返る。カーテンも引いていない窓。
 四階の窓。
 ……ここから飛び降りたら、死ねるかしら。
 頭から落ちれば、多分死ぬわね。
 でも私が死ぬだけかもしれない。
 リリスに還るだけで終わりかもしれない。
 それじゃあ、死んだことにならないわ。
 彼の望み通り消えたことにはならないわ。
 ごめんなさい。満足に消えることも出来ない私でごめんなさい。
 ごめんなさい……。



 綾波レイ。
 あの人に与えられた名前。
 あの人に作り出されたカタチ。
 私は消えることは出来なくても、綾波レイはもうすぐ終わる。



 リリス。わたし。
 懐かしいわたし。
 本来のわたし。
 私の、還るべき場所。

 もうすぐ、還る時が来る。

 ……還りたいと思っていた。
 あの人に縛られたくなんかなかった。
 あの人に従う義理なんかない。還れば私は自由になる。早く還ってしまいたかった。無の中へと還りたかった。
 なのに今は……怖い。



 人を傷付けて。心がひび割れて血を流すくらいに傷付けて。
 他には何も為せないまま、無に還る。

 そんな生に、意味なんてあるの……?

 望んで生まれたわけじゃない。でも生まれてきた以上は意味を見出したい。
 人をただ傷付けるだけで無に還る。
 それじゃ私は、何のために生まれたの……?

 何かを……為したい。

 満足に消えることさえ出来ない私だけど、何かを為したい。
 誰かのために何かを。
 何かを。







 ……「何か」は。
 どうしてもあの人に帰結した。







 予定していた時間より早く目が覚めた。
 部屋はまだ蒼闇に沈んでいる。眠る前と変わっているのは月の位置だけ。
 体を起こした。もう一度眠る気にはなれない。
 月を仰ぐ。
 白く輝く月。真円の月。一対一で向き合っているような、そんな錯覚を覚える。
 消えてしまえるなら、今がいい。
 この光の中がいい。
 消えて、しまえるなら。

 ……月から顔を背け、床に下りる。
 夢想に逃げるのはやめよう。現実と、向き合わないと。
 着ていた物を脱ぎ、制服に袖を通す。他人の服という感覚は今も抜けない。
 抜けなくて、かまわない。
 私は「私」の物ではないから。


 ――だけど。


 視線を送る。
 歩み寄って、手に取った。
 「私」が大事にしていた眼鏡。

 本部まで持っていくつもりはなかった。
 ここに置いていくつもりだった。
 でもその前に。

 両手にぐっと力を入れて、壊しにかかる。
 手の中で軋む音がする。

 涙を流さなかったら、私は私。あの人のことなんてどうでもいい。
 「私」なんて知らない。「私」の想いも知らない。
 「私」もあの人も傷付けばいい。

 でももし、涙を流したら。
 私は……「私」。「私」でしかない。「私」を否定したがっていた「私」に過ぎない。
 だから涙を流したその時は。
 その時は――



 乾いた音とともに壊れた瞬間、ぽたりと目から涙が落ちた。



 あぁ……やっぱり、そうなの……。
 「私」はずっと、ここにいるのね……。

 分かっていた。私は「私」の影だって。
 私の周りにあったのは全部「私」の物だった。
 部屋も、服も、人も、全部。
 あなたの絆を壊してごめんなさいね。
 だって悔しかったの。あなたの物が憎らしかったの。私の物が欲しかったの。
 でも終わりにするわ。私はあなたの影だから。分をわきまえない欲望はもう捨てる。
 あなたの想いに従うわ。
 あの人に従う。あの人の願いを叶える。だから安心してね。
 謝っても許してはもらえないでしょうけど……彼も傷付けてしまって、ごめんなさい。
 悪いのは、私だから。
 あなたじゃないから。
 全ての責めは私にあるから、あなたはそのまま、彼を想っていてあげて。
 本当に、ごめんなさい……。

 涙を拭おうとして、手から血が出ていることに気が付いた。
 素手で壊すなんて真似をしたから。馬鹿だわね。
 ポケットの中のハンカチを取り出しかけて思い出す。こっちは白の方だった。
 干していた紺の方を洗濯バサミから外す。もうすっかり乾いていた。
 紺のハンカチに赤い血が吸い込まれていく。これでいい。汚れが目立たないから。

 私の買った、ハンカチ。
 私の、物……。

 紺のハンカチを綺麗に畳んだ。血が止まったのを確認して白の方もポケットから取り出す。
 二つのハンカチをベッドに置くと、月の光が照らしてくれた。
 そのまま残して、私は部屋から出て行った。







 LCL。
 私の生まれ育った場所。
 空気よりも長く私が触れていた物。
 オレンジ色だった液体に、死の色をした臓物に、私はかつての姿を見る。

 漂う無数の、「綾波レイ」。

 その中の一人が「私」だった。
 その中の一人が私だった。
 たまたま三つ目の器になった私。
 もう、その役目も終わりを迎える。

「……レイ」

 振り返る。声を聞くだけで分かっていた。
 “碇司令”。
 彼がここに来たのなら、その時が来たということ。

「さあ、行こう。今日この日のためにお前はいたのだ」
「――はい」

 服は既に脱ぎ捨てていた。
 ヒトとしての常識も、理も、もう私にはいらない。

 ターミナルドグマ最深部への長く薄暗い通路を歩く。
 二つの影となって、私達は歩く。

「……“碇司令”」

 前を行く姿が、私の方へと首を回す。

「碇ユイは……どんな人なんですか?」

 彼の足が止まった。
 当惑しているのを感じる。こんな質問をされるなんて思っていなかったんでしょうね。
 私も、今まで尋ねる気はなかったから。

「……ユイは」

 出された声には苦渋が滲んでいて。
 同時に、かつて「私」が聞いたのと同じくらい、いえ、それ以上に優しい響きも含まれていた。

「私の……全てだった」
「そうですか……」

 声にならない想いが伝わる。
 ――会いたい。
 その目は遠くを見つめている。目の前の私は見ていない。
 大切な何かを想う時、人はこんな目をするの?

 会いたいのなら……会わせるわ。
 それが私の役目だから。
 あなたがそんなに願っていることだから、会わせるわ。
 それで私は、生まれてきた意味を果たせる。







 生まれてきたことの意味。
 存在してきたことの意味。
 誰にもそれがあるのなら。
 あなたにとって、その意味は――?







「赤木リツコ君、本当に――」
「……嘘つき」

 口元が微かに笑みを作った。
 銃声が轟き、“赤木博士”は落ちていった。

 目には映っていなかった。私と同じで。
 “碇司令”の目には、全く。
 “赤木博士”はきっと、彼しか見えていなかったのに。

「……アダムは既に私と共にある。ユイと再び会うにはこれしかない」

 乾ききった砂のよう。水を一滴与えれば、どこまでもどこまでも染み渡りそう。
 “碇司令”には一つのことしか見えていない。狂気と呼べるほどの情動。
 碇ユイ。
 ただそれだけを求めている。

「アダムとリリスの、禁じられた融合だけだ」

 その右手から確かな気配を感じる。
 生きている。
 彼もまた、生きている。
 何を求めて?
 何のために?

 ボトリと私の左腕が落ちた。

「……時間がない。始めるぞ、レイ」

 ATフィールドを解き放つ。
 心の壁を解き放つ。
 私のカタチがおぼろげになる。

「不要な体を捨て、全ての魂を今、一つに」

 一つに。

「そして、ユイのもとへ行こう……」

 碇ユイのもとへ。

 右手が私の胸に食い込み、入り込み、下腹部へと動く。違和感。
 異物が私の中に混じる。
 私の中が変わっていく。
 アダムを呑み込み、願いを受け入れ、碇ユイのもとへと私は――





 ――何かが、聞こえた。





 ……声……?

 この声。
 この声。知っている。
 知っている――。

「事が始まったようだ。さあ、レイ。私をユイのところへ導いてくれ」

 視界にあるのは“碇司令”。届く音は“碇司令”。
 だけど私は目を凝らし、耳を澄ます。
 遥か先へ。遥か先へ。


 見えた。


 聞こえた。


 吹きすさぶ嵐、浮かぶ初号機。
 中にいる。
 見える、聞こえる。
 姿が、声が。

『うわああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!』

 知っている。確かに私は知っている。
 誰が知らなくても、私だけは。

「まさかっ!?」

 “碇司令”が驚愕する。その目を正面から見据えた。

「私は、あなたの人形じゃない」

 ――彼を受け入れない。
 私の意志に従って、私の体は彼の部分だけをはじき出した。

「何故だっ!?」
「私はあなたじゃ、ないもの」

 そう。
 私は彼じゃない。

 私は私。
 あの悲痛な叫びによく似た叫びを知っている私。

 叫ばせたのは私だった。
 傷付けて。心がひび割れて血を流すくらいに傷付けて。
 憎悪と、それに続く恐怖と絶望の声を上げさせたのは私だった。
 「私」じゃない、私自身。

 絆なんてもうない。
 傷付けて、壊して、ただの欠片しかもう残ってない。
 だけどそれは。
 それこそが。
 私が自分の手で作った物。
 私一人だけの物。

 手放さない。絶対に。
 今こそ私は、為すべきことを見つけた。
 私の生の意味を見つけた。

「レイっ!!」

 懇願する“碇司令”に無言で別れを告げ、私は再生された腕とともにリリスへ還る。

「頼む……待ってくれ、レイ……!」
「駄目」

 だって、

「碇君が呼んでる」





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 次回が最終話です。





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