闇を抜けて、建物を抜けて、外へ、空へ。

 雲の先は青。
 青。
 一面の、青。

 そこにいた。
 碇君。





 碇君。





 ……怯えている。震えている。
 怖がらないで。あなたに危害を加えたりなんかしない。
 私じゃ駄目なら。
 それなら。
 それなら。



     『もう、いいのかい?』



 顔が上がる。希望が浮かぶ。

 彼がその手で失くした姿。
 彼が求める、救いのカタチ。


「……そこにいたの? カヲル君」


 満ち足りた、安らかな表情で、ゆっくりと目が閉じられる。
 彼とともに舞い上がるように私は身体を伸ばして、羽を広げた。










籠の鳥の物語
第5話



 〜解放〜











 ――静寂。

 音もなく赤い水が動く。
 一滴一滴が命、魂。
 全てはここに還ってきた。

 眠るように瞼を閉じている彼を見下ろす。
 赤い世界で、形のあるのは私と彼だけ。
 時間の概念さえここにはない。
 私達を隔てるものもない。

 手をそっと伸ばし、髪に触れてみる。
 顔の輪郭に沿って指を滑らす。



 碇君。





 ……碇君。





 薄く瞼が開いた。
 私に怯えた様子はない。

「……綾波?」

 久しぶりに、聞いた気がした。



「夢を……見てたのかな……」

 まだどこかぼんやりとした声。

「昔のこととか色々なことがずっと……」
「そう」
「……綾波」

 私を見上げる瞳に翳が差す。

「酷いことをして、ごめん……。謝って済むことじゃないけど……」

 首を横に振ってみせる。

「私こそ、ごめんなさい。あなたをとても傷付けたわ」
「いいんだ、僕が悪かったんだ」
「悪かったのは、私だわ」
「違うよ、僕が……」

 そこで彼の表情がふっと和らぐ。

「……何だか、不毛だね」
「そうね」
「でももう一度だけ謝らせて。ごめん、綾波。僕が臆病で、勝手すぎたんだ」
「いいの。私もあなたの気持ちを考えなかった。ごめんなさい、碇君」

 私に笑って首を振ると、今更のように周囲を見回した。

「僕は死んだの……?」
「いいえ。全てが一つになっているだけ」
「そう……」

 理解したのかどうなのか、それだけ呟くとまた私に視線を向ける。

「元のようには戻れないの?」
「戻れるわ。あなたが望めば」
「僕が……望めば」
「戻ることも出来る。このままいることも出来る。あなたを脅かすもののない世界に」
「僕を……」

 その頬をそっと指でなぞる。

「私も、あなたを傷付けない」
「綾波、も……?」
「ええ」

 もう二度と。

「あなたの望むカタチになり、あなたの望む世界を成す」

 指で、掌で、頬を撫でる。
 彼は夢見るような眼差しを私に注ぐ。

「全ては、あなたの望む通りになるの」



 受け止めるのは、不快じゃなかった。



「……それは……」

 彼の手が、私の動きを優しく止めた。

「それは……違う気がする。これも……」

 もう片方の手が持ち上がる。

「……違うと思う」

 十字の形のペンダントが、私達の間をゆったり流れた。

 ずっとその手にあったもの。
 助けた命。
 託された想い。
 彼の中に、息づく人。

「……いいの?」
「うん」


 ――傷付くかもしれないけど、いいの?
 ――うん。


 微笑んで彼は私の手を握る。

「……ありがとう」







 横向きで頭を膝に乗せて、存分に彼の髪を梳いた。いくら梳いても飽きなかった。
 碇君は少し照れくさそうにそれを受けていた。

「みんなも、戻れるのかな?」
「自分自身のカタチを、イメージ出来れば」
「……どうだろう。ここはとても気持ちがいいから。全部忘れて、ずっといたくなるくらい……」

 それでも……、と続ける。

「戻ろうとする人は、出てくるね。僕が望めたくらいなんだから」
「命には復元しようとする力があるわ。生きることを、望む力が」
「うん」

 彼はまた口を閉じ、私は髪を梳き続ける。

「……綾波」

 やがて、真剣なものの混じった呟きが落ちる。

「綾波は……どうするの?」

 名残を惜しみながら指を止めた。

「綾波は、戻れるんだよね……?」
「ええ」
「一緒に戻ろうと言ったら、戻ってくれる?」
「ええ」

 口元を奇妙な形に歪め、私に背を向けたまま碇君は押し黙る。
 次に彼が何かを言うのを、いつまででも待つつもりで待った。

「……綾波が、決めて」

 長い長い沈黙の後、泣き笑いのような表情が私を見上げた。

「僕はどうしても……自分に都合のいい方ばかり選んでしまうから……」
「それでいいのよ?」
「駄目だよ」

 迷いを滲ませながらも、それを断ち切ろうとする強い口調。

「僕のために、綾波に選んでほしくない」

 瞳に私の視線が引き込まれる。

「綾波が、自分で選んで」

 私が……選ぶ。
 ここにいるのか、彼と戻るか。





 一つの光景が浮かんだ。

 彼の隣で微笑む私。どちらも今より歳を重ねている。
 腕の中には彼に似た面差しの赤ん坊。すやすやと寝息を立てるのを、彼がいとおしそうに覗き込む。

 そんな温かで、優しい光景――。





「私は……」

 見上げる瞳に、吸い込まれてみたかった。

「……戻らない」
「うん……そっか」

 ほろ苦く、少し寂しげな、けれど驚きは混じっていない声。

「でも、いなくなりはしないよね……?」
「ええ、いるわ」

 あなたの傍に。

「あなたを包む大気になって、あなたの踏みしめる大地になって、あなたを潤す水になって」

 いつでもあなたの傍にいる。
 あなたが傷付くことがあったとしても、いつでも私が傍にいる。

「私は、あなたの生きる世界そのものよ」

 穏やかに笑って彼が立ち上がる。その手に引かれて私も立つ。
 何も隠さないでいた私達が、制服を着た姿へ変わる。
 彼のイメージによるのか、私のイメージによるのかは分からない。
 でもこの方が私達らしい気がした。

 一度しっかりと握り締めてから、彼は私の手を離し、笑顔のままに背を向け、歩き出す。
 別れの言葉はない。
 そんなものは必要ない。

「碇君」

 彼が振り返る。

「私は何人目?」
「え?」

 頓狂な声を上げて、著しく間の抜けた顔をする。

「え……あ……えーっと……」

 うろたえている。困っている。
 落ち着きなく両手を動かしながら、右を向いたり左を向いたり、下を向いたり上を向いたり。
 その様を私はじっと見つめた。

 ひたすら考えに考え抜いたらしい末、彼は恐る恐るといったふうに答える。

「ごめん……分かんない……」

 小さな声が漏れる。私の口から。
 軽やかに弾んだ、明るい声が。

 きっと今私は、顔全体で笑っている。

 碇君もつられるように笑った。
 とても晴れやかな表情で。





 そして彼は、歩いていった。



































 私は一人佇んでいた。
 空と海の青の狭間で。

 これは碇君の残したイメージ。
 美しいこの星のイメージ。

 世界は再生されていく。
 彼はここで生きていく。



     『本当に、よかったのかい?』



 声がした。

 聞き覚えはある。そもそも今の私に干渉出来る相手なんて限られているのだし。
 いえ、あるいはこれは、知っている声を借りた私の内面からの問い掛け?



 ――戻らなくても、よかったのか。



 ……そうね。もしかしたら辛くなるかもしれない。
 いつか彼の隣で微笑む女性が現れたら、辛いと思うかもしれない。

 でも私には、他の誰にも出来ないことが出来る。

 彼をずっと見守っていくということ。
 彼が死んだ後も、見守っていくということ。
 彼の子供達を、そのまた子供達を、ずっと見守っていくということ。

 彼の中にはあの人も碇ユイもいる。
 血となり、肉となり、生きている。
 その子供達の中でも生きていく。
 ずっと、ずっと、生き続ける。

 生きて、受け継がれて、受け継いだ者もまた生きて……
 命の続く様を見守っていく。

 それが幸せでなくて何だというの?





 海を見下ろす。
 空を仰ぐ。
 あの時見たのと同じ青。

 私は世界そのものになる。

 私の中で彼は生きていく。

 彼にありったけの祝福を。
 彼を取り巻く全てのものに祝福を。
 世界を成す私自身に――祝福を。





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 籠の鳥は羽ばたきました。これをもって完結です。
 執筆開始当初の「貞本版の展開によっては、話を大幅に変える必要に迫られるかもなぁ」という危惧は、全くの杞憂で終わりました(苦笑)。お願いしますよ、貞本先生ぇーーーーーっ!!

 EOEを観た時は、それはまぁ色々と不満もありましたが(結局何も出来ないまま補完されたシンジとか、もっとゲンドウも描き込んでほしかったとか、「気持ち悪い」で終わるのはどうよとか)、シンジとレイが別れること自体は文句がなかったんですよ。描写充分とは言わないまでも、二人の心が確かに通い合ったのは感じましたから。その結果としての別れはありだと思いました。おかげでテレビ版ラストで感じたモヤモヤも吹き飛び、エヴァにきちんと区切りをつけられ、“卒業”出来たわけなのです。……数年を経て思いがけず舞い戻ることになりましたが(笑)。
 サイトやら掲示板やらを回っている時に見かけた、シンジとレイの別れを銀河鉄道999に重ねる観点には成程と思わされました。劇場版999の主題歌、離別を歌っているのに前向きな曲調。私の中でのEOEの二人はそういうイメージだったんだと気付かされたのです。
 23話〜EOEを今になって振り返った時に生まれた解釈、埋めてみたくなった場面と場面の隙間――それらを形にしてみたのがこの「籠の鳥の物語」です。一応、書きたかったことは作品内にぶつけ切れたと思っています。それが読み手の方にちゃんと伝わり、受け入れてもらえるものであるなら嬉しいのですが。

 レイからシンジへの想いは「愛」、シンジからレイへの想いは「恋」のつもりで書きました。恋が愛に劣るわけではないし、愛に恋は全く含まれていないわけでもない、という注釈付きで。
 ただ、書きたかったのはあくまで「綾波レイ」なので、この作品がLRSに当たるのかどうかは作者である私自身にも分かりません(笑)。お好きな方向でお取りください。

 今回、これまでの小説とは意図的に文体を変えました。一文一文を短くし、本筋と関係ない部分はバッサリ切って、説明よりも文章のリズムを大事にしました。文章的な疾走感とでもいうべきものを出したかったのです。
 何を目的としてこんな書き方にしたのかは覚えていませんが(爆)。
 乾いた硬質さを表現したかったのか……はて。

 それでは、お読みくださいましてありがとうございました!





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