「とうさん」

 ベッドの上からシンジが、暗く翳った瞳を向けてくる。

「ぼくもかあさんにあえる?」

 ――失敗した。
 反射的に思った。リリスレイも私の傍らで身を硬くする。

 今晩読んでやっていた絵本は『マッチ売りの少女』。母の存在を匂わせる題材は避けてきたのだが、少女が祖母の幻を見るくだりでシンジは敏感に自分の境遇と重ねてしまったらしい。
 黒々とした双眸に射竦められたかのように私は動けなくなる。言い繕うことなど慣れきっているはずなのに、答えるべき言葉が咄嗟に出てこない。
 だが……いい機会なのかもしれない。ユイが消えてからもう半年近く経つ。幼いからという理由で、いつまでもシンジに事実を黙しているわけにもいかない。ただでさえマスコミが無責任に騒いでいるのだ。他人の口から心ない噂を吹き込まれる前に、私がシンジに語らなければ。
 決意を固め、椅子に座り直して正面から向き合う。

「……今は会えない」
「かあさん、どこいったの? いないの、もう……?」

 泣き出しそうに歪む顔に、しかし私はかぶりを振る。

「いる。ユイはいなくなってはいない」
「でもいないよ……?」
「いるのだ。目には見えずとも、確かにいる」

 リリスレイと同じだ。見えなくとも、感じられなくとも、例え存在そのものが変わったとしてもユイはいる。

「いつでもお前を想っている。お前を遠くから案じている。元気で暮らしているだろうか、泣いてはいないだろうか、ピーマンも食べているだろうかと」
「ぴーまんきらい……」
「食べろ」

 見る見る浮かぶ涙の粒。慌てて咳払いをして場を誤魔化す。

「いずれお前は学校に通うことになる。私の傍に一日中いるわけにはいかなくなる。それは分かるな?」
「……うん……」

 抗い難い恐怖であるかのように表情を強張らせながらも殊勝に頷く。

「子供はいつか親から離れ、一人の力で生き、成長しなければならない。私もそうやって生きてきた。ユイもそうだったろう。その最中で大切なものに出会うのだ。私とユイが出会い、結婚し、お前という子供が生まれたようにな」

 幼いなりに真剣な表情でシンジは聞き入る。自分で口にしている言葉が、私の胸の内側に重く降り積もっていく。
 小さな頭に掌を乗せる。もう一人の息子にはしてやらなかった……してやれなかったことだ……。

「ユイも私も、いつまでも一緒にはいてやれない。だが、いつでもお前のことを想っている。近くにはいなくとも、目には見えずとも、それは決して変わらない」

 今はまだ全ては理解出来ないだろう。
 分からずともいい。覚えておいてさえくれれば。

「だから安心して、お前はお前の大切なものを見つけていくのだ。友達や恋人といったものをな」

 シンジは神妙に耳を傾け続け、リリスレイは半眼で私を睨み続けた。





       「歪んだ思想へ誘導している……」

「どこがだ? 一般論を語ったまでではないか」

       「その『悪いことなどしていませんよ?』的な顔が腹立たしいのよ」

 行儀悪く机に腰掛けたリリスレイに憎々しげな顔を近付けられるが、それで威圧されるほど私の面の皮は薄くない。伊達に嫌われ人生は歩んできていないのだ。
 シンジが寝付いた後、私達は書斎へ移動していた。公人としての立場や父親としての務めから解放されるのは一日のうちでこの時間だけ。私はのんびり読書をし、リリスレイはラジオを聴く。こいつにとってテレビやラジオは貴重な娯楽。どういう手段を用いているのか、最近は投稿まで始めたらしい。まるで主婦だ。
 もっともそれは、私の知る範囲内での姿にすぎないが。

「……毎日、どこで何をしているのだ?」

 シンジの精神状態は以前に比べれば安定している。すぐに戻ると約束し、実際に一、二時間程度で戻ってくるなら、私が別の場所に行っても泣かなくなった。その後充分にスキンシップを取る必要はあるが。
 するとリリスレイは心配の種が一つ消えて安心したのか、よく出掛けるようになった。元々物理法則を超越しているので、私が目覚めた時には既にいなくなっていることもあるし、仕事をしている最中にふっと消えることもある。帰ってくる時間もまちまちで、気が付けば帰りの車の中に乗っていることもあるし、ラジオが始まる時間ギリギリに戻ってくることもある。
 出歩かれたところで別に困りはしないのだが、誰にも知覚されない状況下で、一体どこで何をしているのかは気になる。

       「色々。
        自然の中を散歩したり、
        地下の私の様子を見に行ったり。
        知っている人を訪ねたりもするわ」

「お前の知っている人間など大していないだろうに」

       「誰かさんの育て方のおかげでね」

 本のページを捲るふりをして聞き流す。

       「でも一応、いるにはいるから。
        まだ年若いその人達を見るのは、なかなかに乙なものよ」

「趣味の悪い奴だ」

 まぁ、外に行きたがるのも無理はないか。私達の周りにいたところでシンジの遊ぶ姿を眺めるか、私と話すくらいしか楽しみようがないからな。

       「別にあなたと話すのは楽しくない」

「いらん世話だ!!」

 ふっ、シンジも冬月もいないと声に出して話せるからいい……。こいつの毒舌によるストレスをいくらかは緩和出来る……。

       「私こそストレスを受けているわ。
        あの子達の将来が心配で――」

『では次は神奈川県にお住まいの、ラジオネーム、キャサリンさん――』

 その瞬間、はじかれたようにリリスレイは机から飛び降り、ラジオの前にダッシュした。いや、ダッシュという表現は適切ではないかもしれんが、とにかくそう言いたくなる動きだった。
 突然の行動に私はただ唖然とする。

『――からのリクエストで、ロマンティックな夜にふさわしいナンバー、“FLY ME TO THE MOON”』

 流れ出す、甘ったるいジャズの音色。音楽にさして興味のない私でも知っている有名な曲。しかし今現在私の関心を占めるのはそこではない。

『この曲を聴くと、宇宙空間にいるような水の中にいるような、そんな心地になるというキャサリンさん。なかなか詩的な方ですね。今宵は皆さんも月を見上げてみてはいかがでしょうか』

 うっとりとした表情で、ほとんど陶酔状態なリリスレイ。呆然と見つめる私。
 結び付けたくはないもの達が勝手に頭の中で結合していく。

「……キャサリン……?」

       「エリザベートの方がよかったかしら」

「どちらにしてもどこから出てきた名前だ、それは!?」





贖罪 〜彼の歩む道〜

episode 2





 私が来たのを見てレイは明らかな喜色を湛えた。モミジそのもののような手をいたいけにも伸ばしてきて――ガラスに突き当たり、恨めしそうに顔をしかめる。出せ、とばかりにカプセルをペチペチと叩き始めるのを冬月がたしなめた。

「こら、レイ。駄目だ。お前はまだ外に出て行ける体ではないのだ」

 不承不承といった様子で頷き、代わりに視線で、冬月の手にしている物をせがむ。

「分かった分かった、続きだな」

 開かれた子供用の図鑑を、レイは食い入るように見つめる。

「これはな、ウマだ」
「う、あ?」
「う、ま」
「う……ま?」
「そうだ。偉いぞ、レイ」

 ガラス越しに頭を撫でられる真似をされて嬉しそうに笑うレイ。冬月も目を細めている。
 公私共にあまり自由の利かない私に代わって、冬月がドグマに通い詰めてレイの面倒を見ていた。身体面の調整のみならず知能や情緒の発達も促している。元々教鞭を執っていただけあって、物事を教えることは苦にならないどころか楽しいらしい。顔付きは以前より遥かに生き生きとしていた。教師と生徒というよりは祖父と孫を思わせたが。
 我々人類にとっては神にも等しい存在、リリス。しかし好奇心いっぱいな様子で動物の写真を眺めるレイに、その荘厳な面影を見出すことは難しい。魂自体は何億という歳月を刻んでいても、眠ったまま過ごしてきたような状態だから赤子と大差ないということなのか――実はこの点は昔も今も解明出来ていない。未だにリリスは人知を超えた存在である。
 ただ、本来の性格は決して純粋無垢でも純情可憐でも天真爛漫でも温厚篤実でもないことだけは大変よく理解出来たつもりだ。ちなみに当人は今日もまたどこかをほっつき歩いていた。
 部屋の外周部へ私はそっと足を向ける。冬月が僅かに息を呑む気配がした。レイは図鑑に夢中で気付いていない。……それでいい。
 外周部の照明は落とされているので、巨大なガラスの向こう側は見えない。液体の動く音だけが微かに耳に届く。夜の水族館はこんな雰囲気なのだろうか。
 水槽の中は何も見えない。だが何がいるのかは知っている。気のせいか、それとも現実の感覚か、気配がする。
 無数のレイが私を見つめている気配が。





 名残惜しそうなレイに翌日の再訪を約束し、我々は上層への帰途に就く。空気は些か重かった。
 躊躇いがちに冬月が口を開く。

「……MAGIが完成すれば、エヴァの改良も飛躍的に進むだろうな」
「我々に与えられている時間は長くはない。使徒との戦い、課せられている計画の遂行に備えねばならん」
「そうだな。実験を繰り返して……」

 おそらく、考えていることは同じだろう。
 レイを慈しめば慈しむだけ、水槽のクローン達への罪悪感が募っていく。いずれ実験で使うことになるだろう。いくらでも代えが利き、苦痛を訴えてくることもないモノ達を。
 ……世間は私を妻殺しの極悪人と呼ぶ。奴らの痛罵など蚊に刺された程度にも感じないが、シンジやレイに我々の非道な行いを知られ、糾弾されたらと思うと心胆が凍えた。
 せめて、クローンのもう一つの用途だけは防げたら……。

 気持ちの晴れないまま冬月と別れ、医務室に寄る。私がドアをくぐった途端、パッとシンジが駆けてきて足にしがみ付いてきた。泣いてはいないが体は微かに震えている。頭を撫でてやると、ようやく肩から力を抜いた。
 さりげなく辺りを見回す。リリスレイの姿はない。まだ帰ってきていないのか。
 シンジを足に捕まらせたまま所長室へ向かう。引きずられるのが楽しいのか、べそをかく寸前だったのが嘘のようにはしゃいでいるが、私は重い。気分も一歩ごとに沈む。帰ったらきっと机の上に書類が溜まっている。内容をチェックして裁決して……あぁ、面倒だ。しかももしかするとまた彼女が――

「あら、所長」

 ギクリと心臓が跳ね上がった。後ろから聞こえてきたのは、今一番耳にしたくなかった声。逃げ出したい衝動を何とか押し殺して振り返る。

「……どうしました、赤木博士」

 赤木ナオコ博士は私に答える前に屈み込み、「こんにちは」とシンジに挨拶する。ユイがいなくなって以来、人見知りが激しくなったシンジだが、ほぼ毎日顔を合わせる彼女に対してはさすがに隠れるような真似もせず、「こんにちは……」とはにかみつつ応じる。にこりと笑い返して赤木博士は前髪を軽くかき上げ、あらためて私に視線を合わせた。

「MAGIシステムについて少々御相談したいことがありまして、これから伺うところだったんです。御一緒してもよろしいでしょうか?」
「……ええ、勿論」

 ほくそ笑むような光が一瞬瞳に揺らめいた――そう見えたのは私の被害妄想だろうか。
 今日に限らず、彼女は何くれとなく理由をつけて所長室を訪れる。机を回り込んでわざわざ私の横に立ち、息がかかるほどの距離で資料の説明をしてくる。年齢の割には若々しい肉体にそうまで近付かれると、シンジが同じ部屋にいることも忘れてついつい理性のたがを外しそうに……あ、いや。
 とにかく、良き父親であるためにも赤木博士とは一定の距離を保ちたいのだが、仕事の話を持ち出されては追い返すこともままならない。かくして今回もまた、シンジを間に挟んで一緒に歩く次第である……。

「地下に行っていらしたんですか? 冬月先生の研究の進み具合はいかがです? 最近は直接お会いする機会もあまりなくて気になっているんですよ」
「まだ発表出来る段階ではないそうですが、推論を裏付けられるだけのデータは必ず得てみせると意気込んでいます。期待して待ちましょう」

 冬月は墓場に打ち捨てられているエヴァに着目し、ある研究を始めていて、私も時々様子を見に行っている――。それが表向きの、我々がドグマに入り浸る理由だった。赤木博士は現在MAGIの開発に専念しているので怪しまれる怖れはまずない。

「冬月先生もそうですが、通常業務に加えてドグマ潜りまでしていては所長も日々お疲れでしょう? たまにはゆっくりとお休みになられては?」
「いえ、問題ありません……」

 視線にねっとりとしたものを感じ、咄嗟に盾代わりにシンジを抱き上げ、肩車をする。
 彼女のペースに巻き込まれてはいかん、話題を変えよう。ええと、そうだな……

「……リツコ君は元気ですか?」
「あら、よく娘の名前を覚えておいででしたわね」

 それはもう、私にとっては馴染み深い相手だからな。
 いや、変な意味だけではなく。

「元気に勉学に励んでくれているようですわ。いい友達も出来たらしくて、よくその子のことを手紙に書いてきます。よほど楽しいのでしょうね」

 友達……葛城君か? 確か大学時代から交遊があったとの話だし。
 リリスレイは彼女達も見に行っているのだろうか。

「卒業したら是非ゲヒルンに入所してもらいたいですな。今は優秀な科学者が一人でも多く欲しい」
「まあ、恐れ入ります。御期待に沿えるかは分かりませんが、所長のお言葉は娘に伝えておきますね」

 満更でもなさそうな表情に、母としての誇りと喜びが感じられた。あまり見た覚えのない表情だ。
 このまま平穏に過ぎればいい。何事もなく、平穏に……。



 クローンのもう一つの用途。
 ――レイのためのスペアパーツ。



 この世界でまで繰り返したくはなかった。
 可能な限り普通の人間に近い形でレイを育ててやりたかった。
 死なせたくは、ない。

 赤木博士とかつてのような関係を結ばない最大の理由がそれだった。一人目のレイの死と密接に関わった彼女。距離を置けば、同じ轍を踏まずに済むのではないかと思って。
 土気色をした子供の死体。無残に頭の潰れた死体。記憶が脳裏をよぎっては消えていく……。

「とうさん? どしたの?」

 シンジの声で我に返る。どうやら考え事をしているうちに足が止まってしまっていたらしい。危なっかしい体勢で顔を覗き込んでこようとするのを慌てて制する。

「大丈夫だ、心配いらん」
「でも顔色がすぐれませんわ。お加減が悪いのでは?」
「とうさん、いたいいたい? おまじないする?」
「いや、それには――」

 及ばん、と言う前にシンジは私の頭を撫でさすり、「いたいのいたいのとんでけー」と呪文を唱えた。……元々何が痛かったわけでもないので効果はない。だが、胸の奥からじわりと温かいものが湧いてくる。赤木博士も微笑を誘われていた。
 いっそ彼女に、レイの存在を明かそうか――。
 再び歩き出しながら、そんなことを考えてみる。早くに対面させれば庇護欲をそそらせることも可能かもしれない。

「赤木博士……」

 彼女の協力が得られればどんなに楽か。どうせエヴァ搭乗者の選定という段階に進めば、クローンの存在も含めて話さないわけにはいかなくなる。何年も秘密裏に育ててから打ち明けるよりは、今のうちに明かした方が得策。
 だが実際に私が口に出来たのは、

「MAGIの早期開発、よろしくお願いします」
「え? ええ、勿論尽力いたしますわ」

 ……それだけだった。
 レイはまだスイッチ一つで死んでしまう脆弱な状態。危ない橋は渡れなかった。

「そのためにも是非所長の御意見を伺いたいんです。少々長めにお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」

 ぐおっ!? しまった、薮蛇か!?

       「無様ね」

 帰ってくるなりそれか、キャサリン!?

「所長、どうしたんですか? 急に虚空を睨んだりして」
「いえ、何でも……」

 あぁ、もう家に帰りたい……。
 うなだれる私の頭を小さな手はまだ撫で続けていた。







 時は緩やかに、だが着実に進む。
 シンジとレイは成長していく。
 少しずつ。
 少しずつ。



「オニたちはこうさんしました。『ごめんなさい。もうわるいことはしません』」

 風邪をひいて休んでいる冬月の代わりに、レイに絵本を読んで聞かせる。シンジはもうすっかり内容を覚えてしまった『桃太郎』。レイはまだ、瞳を輝かせて聞く。

「ももたろうはいぬ、さる、きじといっしょに、おじいさん、おばあさんのところへかえりました。それからずっとしあわせにくらしましたとさ。めでたしめでたし」
「めれたしめれたし。ももたろ、よかったね」

 冬月に教わったのか手を叩く真似をする。発音はたどたどしいが言葉は文章の形を成していた。
 肉体の成長速度よりは遅くとも、内面も確かに発達を遂げていた。

「……レイ」

 名を呼ぶと素直に見返してくる瞳。湖面のように澄んでいる。

「いずれお前に、シンジを紹介してやるぞ」

 パチパチと瞬きをする。

「しん、じ……?」
「ああ」
「し、ん、じ?」
「そうだ」

 響きは覚えても意味は分からず、レイは不思議そうに小首を傾げる。思わず頬が緩む。
 私が笑うとレイも笑った。







 冬月の積極的な協力のおかげでレイの肉体の安定化は順調に進み、前の世界よりずっと早期にLCLの外へ出すことが出来た。

 約束を果たせたのは、シンジが小学校に上がる年の二月だった。







「……レイ、これが私の息子のシンジだ」

 地上まで出てきたのが初めてならば、私と冬月以外の人間と相対するのも初めて。警戒しているのか、レイは私の足に取り縋ってくる。

「シンジ、この子は綾波レイ。私の知り合いの娘さんだ。今日からうちで一緒に暮らす」

 急な話についてこられないのか、シンジはぽかんと口を開けている。

「……仲良くするのだぞ」

 返事はない。互いにただ黙って向き合っている。友好的とはいえない雰囲気で。
 お互いに一目惚れしてくれれば都合がよかったのだが、そんなに上手く話は進まないか。

       「当たり前でしょ」

 うるさい。
 しかし冷ややかなツッコミを入れてきたリリスレイも、ようやくの対面と相成った二人には気遣わしげな瞳を向ける。昨日から落ち着かない様子でシンジの周りをうろうろしたり、単身レイのもとへ出向いたりしていた。それで何が出来たわけでもないだろうが気持ちは分かる。私も若干緊張している。
 二人は対峙――といって過言ではない――したまま動かない。埒が明かないのでやむなく実力行使に出る。手を取って強引に握手をさせた。

「な・か・よ・く・するのだぞ。よし、今日は天気がいいし外へ行くか。シンジ、レイはまだ、どこをどう歩けば外に出られるのか分からないのだ。案内してやれ」
「うん……」

 恐る恐るといったふうにシンジは手を引いて歩き出す。レイが不安げに振り返ってくるが、背を押して歩かせた。探るような視線を交わし合いながら進んでいく二人。リリスレイとともにゆっくりと後をついていきながら、私は深い感慨を覚えた。
 ……とうとうここまで来たのだな。
 冬月も今頃きっと、監視カメラの向こうで録画しつつ目頭を押さえている。長かった。ようやくこの日を迎えられた。冬月、今日は一緒に飲み明かそう。

「あの……」

       「碇君が動いたっ?」

 よし、いいぞ! 頑張れ!

「レイちゃんはどこからきたの?」
「ターミナ――」
「さあ、早く行くぞ、二人とも!! どうせだから湖まで行こう、湖!!」

 レイにとっては天井のない場所に立つことさえ初めての経験。外へ出るとしきりに辺りを見回した。そこまではよかったが、空を仰いだ拍子に太陽を直視したらしく両目を押さえて呻き出す。いかん、想定外の事態だ。
 慌てて駆け寄ろうとする私とリリスレイ。しかしシンジが声を掛ける方が早かった。

「レイちゃん、だいじょーぶ?」
「うー……ちかちかする……」
「おひさまはあかるいから、きをつけなきゃだめだよ」

 オタオタするでもなく助けを求めるでもなく、大人びた口調で諭す。思わず立ち尽くしてしまった私達を尻目に再び手を取って歩き出すと、レイも先程より自然な動作でそれに従った。

「レイちゃんのめ、ウサギみたいにまっかだね。でも、かみはそらみたい」
「そら、はじめてみたの。にてる?」
「うん。きれい」

 ぎこちなさが一瞬で氷解してしまったかのように、気負いもてらいもなく交わされる会話。私とリリスレイは後ろで半ば呆気に取られながら聞いた。





 平日とあって芦ノ湖畔には人の姿がほとんどない。買ってやったソフトクリームの冷たさにはしゃぐ、子供二人の声がよく通った。
 最初はシンジの真似をして怖々と口をつけたのに、すぐに美味しい食べ物だと分かったらしく、レイは夢中で舐め続けている。鼻のところまで真っ白だ。腹を抱えて笑うシンジだが、はずみでクリーム部分をボトリと落としてしまい、見る見る情けない顔になる。ウエハースしか残っていない、もはやソフトクリームとはいえない物と、まだ三分の一ほどが残っている自分の物とをレイはしばらく見比べて、やがて「いっしょにたべよ」と提案した。シンジが顔を明るくするとレイもまた笑い、二人で一緒に食べ始める。
 そんな様子を、少し離れたベンチから私とリリスレイは眺めた。陽光を反射する水面と同様、輝く光景。眩しすぎて心にまで沁み通っていく。

「シンジはあんな奴だったんだな……」

 結局保育園に通わせることはなかった。だから同年代の子供に対してどんなふうに接するのか、私は知る機会がなかった。シンジ自身も知らなかったろう。今日までは。

「これなら最初は泣かれたとしても、無理やりにでも保育園に行かせるべきだったか。そうすれば今頃、大勢の友達に囲まれていたかもしれんな」

 よかれと思ってやったことは、裏目に出てばかりいる。
 昔も今も。

       「そうでもないわ」

 意外な擁護を受けてリリスレイに目を遣ると、久しぶりに見るような穏やかな顔をしていた。

       「どちらが正解というものでもない。
        あなたはあなたで頑張ったと思う」

「珍しいな、お前が私を立てるとは。最近はキモ中年とも言ってこなくなったし、どういう風の吹き回しだ?」

       「どんな形であれ、あの子達があなたに愛され、笑っていられるならそれでいい。
        ……そんな気になってきた」

 食べ終えたシンジとレイは水道で手と顔を洗い始めたが、徐々にそれが水の掛け合いへと発展する。今日は特に暑いので、水遊びにはちょうどいいだろう。

       「本当は……」

 言いにくそうにリリスレイが言葉を詰まらせる。

       「この先がどんなに変わったところで、
        私達が元々いた世界は何の影響も受けないの……」

「時間の上書きにはならず、別の新たな道をつくるだけということか?」

       「……驚かないのね」

「可能性は考慮済みだったからな。お前は時々、訳の分からぬ単語を口にする。私の知らない世界もあるのでは? 複数の世界が並行して存在するのでは? と推測するくらい容易なこと。私をあまり見くびるな」

       「あぁ、なるほどね」

 小さく笑い、別の何かに思いを馳せるようにリリスレイは遠くを見た。何年経とうと薄れていかない記憶の数々と私も向き合う。まだ尋ねていなかったことが――尋ねてこなかったことがいくつもあった。

「……あの後、やはり人類は補完されたのか?」

       「いいえ。溶け合うことを拒否した人もいた。
        その人達は元の場所へと帰っていったわ」

「シンジは?」

       「帰っていったわ」

「そうか……」

 現実に価値を見出したのか。
 生憎と、素直に喜ぶべきことなのかは判断がつかないが……それを是としたのなら尊重してやりたい。

「どんなふうに生きている?」

       「……諸々の反動で色々と突き抜けた感じで」

「色々とはどんなだ……」

       「生温かく見守るしかないような……」

「だからどんなだ!?」

 ま、まぁいい、これ以上は聞かないでおこう。おそらくその方が身のためだ。リリスレイの泳ぎまくった視線がそう物語っている。しかし本当に一体どんな生活を……。

「とうさーん!」

 髪から足までずぶ濡れになったシンジが、元気に手を振ってくる。隣でレイも真似をして振る。こちらも負けず劣らず濡れていた。
 些か恥ずかしかったが、控えめに私も手を振り返してやった。そんな様子が心底愉快なようにリリスレイがクスクス笑う。……レイの目にも、こいつの姿は映らない。

「ねぇ、もうすぐおひるだよー? ごはんたべよー!」
「服を絞って水気を切れ。まずはそれからだ」
「わかったー!」

 子供の頼りない手で絞っただけで、シンジのTシャツからもレイのワンピースからも勢いよく水が滴る。その程度のことでも二人は楽しそうに声を弾ませる。
 まぎれもなく幸福な情景。

「……お前も、ここで生きられたのではないか?」

 ちらとだけリリスレイは私を見る。

「私に対して出来た真似が自身に出来なかったはずはない。違うか? 何故この世界のレイの中に入らなかった? クローン体だってある。幽霊同然の生活をする必要はないだろうに」

 珍しく覗かせた老婆心だったが、「いいの」と涼しい顔で撥ね付けられる。

       「私は別に、私自身を幸せにしてもらいたいわけじゃない。
        何も知らないこの世界の私が、出来るだけ何も知らないまま幸せになっていく――
        そんな姿が見たいの」

「……そうか」

 後はもう言葉を交わさず、私達はただシンジとレイを眺め続けた。







 だが喜びと安らぎの日々は長くは続かなかった。
 一ヶ月と経たないうちにレイの扼殺体と赤木博士の墜死体が発見されたからだ。
 ちなみにMAGIはまだ基礎理論が完成しただけである。

 ……私は……どこで何を間違えたのだろう……。







       「回避努力はしたのよね……?」

「したとも! バアサンは危ない、バアサンはヤバイ、バアサンに近付くなとレイに何度も何度も言ったのだ!」

       「それよ」



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 ゲンドウとナオコの関係がいつから始まったのかは、確か定かではなかったはずです。もしかしたら新劇版で描かれるかもしれませんが、これを書いている時点では未確定。よって、ユイがいなくなってからではないかという個人的推測に基いて書いています。
 もし今後「ユイの生前からゲンドウとナオコは不倫していた」ということになったら、笑って読み流してやってください……。





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