プラグスーツ姿のシンジが、この世の終わりのような顔で見上げてくる。
 情に流されまいと努めて硬い声音を作る。

「――これからお前を待っているのは狭く、しかもそのうち水まで入ってくる世界だ。だが心配はいらん。その水で死ぬことはない。私も外で待っている」
「とうさんもいっしょにきてよぉ……」
「それは出来ん。私の服は作りたくないと言われてしまったのだ」

 主に冬月から。

「では、健闘を祈る」
「とうさんっ、とうさ――」

 心を鬼にしてハッチを閉ざす。もう声は聞こえない。エントリープラグが横たえられた実験場は無音に包まれる。管制室を仰ぎ、インカム越しに冬月に告げる。

「LCL注入開始。速度は通常の三分の一で」
『碇、本当にやるのか? やはり酷なのでは……』
「長い目で見ればこれがシンジのためだ。やれ」

 渋りつつも冬月が指示に従う。少しずつLCLに満たされ出しただろうエントリープラグ。約束通り、私は外で見守り続けた。若干の緊張を抱えて。

 二〇〇八年、秋。未だMAGIもエヴァも開発途上にある。
 計画は思うように進んでいない。赤木ナオコ博士に代わる新たな研究者、新たな技術部門の長が現れていないことが一因だった。
 それでも手をこまねいているわけにもいかず、現段階でやれることからやるべく、チルドレンを被験者とした初の実験を執り行う運びとなった。まずはエントリープラグとLCLに慣れさせるところからの開始。
 二人には私の仕事に協力してほしいという名目で話を持ちかけた。チルドレンやパイロットという単語は伏せ、あくまでただの協力者として。
 あつらえた小さなプラグスーツに、まるで宇宙飛行士にでもなった気分なのか、はしゃぎながら袖を通したシンジだったが、いざ実験場に通されるとその広大さに足を竦ませた。尻込みするのを宥めすかして、半ば強引にエントリープラグ内に押し込んだ。早期にシンクロが可能になればその分、訓練も早く始められる。来たる時に向けた準備も万全になるというもの。シンジのためを思えばこそ、私は千尋の谷へあえて突き落とそう。這い上がってくる日を待っているぞ、シン――

       「浸ってるんじゃないわよ」

「ぬおっ!?」
『何だ? どうした、碇?』
「いや、問題ない……」

 冬月になるべく平静な声を返しつつ、いきなり出てきたリリスレイを睨み付ける。何も頭上から逆さまに現れなくともよかろう! 全く心臓に悪い……。
 しかし抗議したいのは向こうも同じらしく、上から私を半眼で見据えてくる。

       「いいから、碇君の様子を聞いてみなさいよ」

 シンジの様子、だと?

「――冬月、エントリープラグ内の音声と繋いでみてくれ」
『……そうだな。それが一番手っ取り早いか』

 気になる言い方に続いて聞こえてきたのは――

『わあぁぁんっ!! いやだ、おぼれるよぉっ! とうさん、たすけてよっ! とうさん、とうさぁーんっ!!』
「シンジ!? やめろ、やめるのだ! 誰がシンジにひどい真似を!?」
『お前だっ!!』

       「小さな子供が耐えられるわけないでしょうっ。
        考えなしっ」

 慌てて救出したシンジは大泣きで「とうさんのバカァッ!!」を連発し、泣きやんだら泣きやんだで拗ねて口を利かなくなった。余談だが、この実験がきっかけでシンジは水恐怖症に陥り、プールどころかしばらくは風呂に入ることさえ怖がったのである……。
 その点レイはあっさり順応した。不安そうに少し体を縮めてはいるが取り乱した様子はない、と冬月が伝えてくる。LCLの中で育っただけのことはあるか。

「では今後のデータ収集作業には、ファーストチルドレン・綾波レイを主として当たらせる」

 方針は下したが、学業に支障は出さないのが前提条件だ。実験の回数は限られてくる。一回一回でどれだけデータを集められるか、私の頭の中の知識をどれだけ自然に織り込んでいくかが鍵となるな。
 私が今後のこと全般を考える一方で、リリスレイはただただレイを案じていた。

       「……確かに、怯えてはいないわね」

 エントリープラグ内を見回し、報告してくる。それはいいが上半身だけ中に突っ込むのはやめろ。傍から見るとB級ホラー映画のような絵面になっているぞ。

       「暗い瞳をしているだけ」

 ――咄嗟に言葉が返せない。
 体を引き抜いたリリスレイが真摯な訴えを込めて見つめてくる。無視するつもりは毛頭ないが、さりとて今すぐに何が出来るのかも図りかね、私は視線をそらしてしまった。リリスレイは何も言わない。
 管制室に実験終了を伝え、LCL排出を促す。作業が終わるのを待ってハッチを開けた。

「……レイ」

 内外の明度差のせいかパチパチと瞬きをする、感情の乏しい瞳。私の呼び掛けに対し、やや間を置いて浮かべた微笑は儀礼めいた硬いものだった。

「これで終わりだ。協力に感謝する。シンジと一緒に何か美味い物でも食べて帰ろう」
「はい、おじさま……」

 降りようとするレイに手を差し伸べると、白いプラグスーツに包まれた小さな体が一瞬強張る。だが次には左手を伸ばして私の右手に掴まってきた。形ばかりの笑みを貼り付けて。
 気付かれまいとしている努力に合わせて、私も気付かなかったふりをする。……いや、違う。単にどうすればいいのか分からなくて、表面を取り繕って逃げているだけだ。それだけだ……。
 胃の腑の辺りにズシリとした重みを覚えつつ、レイの手を引いて出口へ向かう。リリスレイは何も言ってこない。ただ背中にその視線を感じる。
 息苦しさから逃れるように管制室を振り仰ぐと、窓際の端に金の髪がちらと映った。





「ところで碇。前から聞こうと思っていたが、何故シンジ君がサードチルドレンなのだ? 普通にファーストかセカンドでよかろうに」
「気にするな。ただの慣習だ」





贖罪 〜彼の歩む道〜

episode 4





 雨。
 せっかくの休日だが朝から雨が降りしきっていた。理科の授業の一環として二人が育てているアサガオも、ベランダで赤紫色の花弁を濡らし、街並みはその向こう側に煙って見えた。
 窓辺から離れて振り返る。シンジとレイはソファーに並んで座ってテレビを観ていた。小学一年生には高度すぎる内容のクイズ番組。退屈そうに足をぷらぷらと動かしている。書斎でリリスレイが聴いているムード歌謡番組の方が、まだしも興をそそるだろう。もっとも、二人の表情が晴れないのは天気やテレビのせいだけではないかもしれないが。
 いつまでも先延ばしには出来ない懸案。意を決して話を切り出した。

「……レイ。悩みがあるのではないか?」

 悪いことでもしたかのように、びくりと身を竦ませて私の辺りに視線を漂わせた後、レイは暗く瞳を伏せた。案じ顔でシンジが覗き込む。

「いじめに遭っているなどは――?」
「あいつら、ひどいんだよ。レイちゃんのかみとか目とか、とうさんがヤクザとか、いろいろコソコソはなしてるんだ。もんくいってもはなすんだよ」

 テレビを消し、憤然と語るシンジの様子は頼もしいが、やはりいじめの類いがあるのは事実か。学校での出来事をあまり積極的に語らないため、もしかしたらと思っていたが。……おのれ、入学式で保護者に睨みを利かせただけでは足りなかったか。この街に住みながら私を敵に回そうとはいい度胸だ。親の永久失職、あらぬ罪のなすり付け、一家離散してホームレス小学生という目に遭ってもかまわんらしいな。子供とて私は容赦せん。世の中因果応報で成り立っていると思い知れっ!
 しかし当のレイは弱々しく首を横に振る。

「でも、ヤクザはちがうけど、あとはほんとだもん……。青いかみの子も赤い目の子もいないの。なんでわたしだけこうなのかな……?」
「それは――美人だけに許された色だからだ」

 とっておきのジョークだったが、レイはおろかシンジさえ、にこりともしなかった。

「あとね、わたしだけおへそがないの……。なんで……?」

 むっ、これは理由付けが難しい。どう答えるべきか。
 回答に窮したことで、レイの俯いた顔が一層翳りを帯びる。

「わたしって、ぜったいへん……」

 声はか細く、震えていた。

「おじさまやふゆつき先生に本をよんでもらったことはおぼえてるの。でもよくおぼえてないの。おぼえてるのにおぼえてなくて……なんだかわかんなくってこわいの……。あれってほんとにあったのよね、おじさま……?」

 あった。
 あったが……それはお前にとって“記憶”より“記録”に近いと、どうして言えるだろう。一人目のように無邪気に笑わなくなったレイに。私との距離感も掴みかねているレイに。
 植え付けられた記録は確たる記憶とはならず、さりとて魂が同一である以上、深層心理に刻まれていても不思議ではない。殺されたという事実も含めて。

 ……何も心配はいらないと。
 不安がることはないのだと。
 そんな言葉だけで慰められるならどんなに……

 視界の端で動くものを捉える。見ると、リリスレイが書斎からリビングへと戻ってきていた。途端に後ろめたさが込み上げる。かつてのレイもまた、二人目になってからは口数が減り、屈託を抱えた瞳を前に私はどんな態度を取ればいいのか困惑した。それとも私が態度を変えたのが先なのか? だから二人目のレイは――三人目のレイは――
 ――リリスレイは、何も言わなかった。俯いたままのレイを悲しげに見つめただけで、私の前を横切り、二人に斜めに対する位置のソファーに腰掛けた。私がいつも座る場所の隣に。
 そっと溜息をつき、覚悟を決めた。

「……紅茶を飲みながら話そう。少し待っていろ」

 砂糖を二つ入れた甘い紅茶。レイの好きな飲み物。
 僅かなりとも救いとなるように願った。







 ――ゲヒルンの仕事は人類の役に立つ研究をすること。

 ――そのために必要なロボットと心を通わせられる、珍しい人間としてレイは生まれた。

 ――親から生まれたのではなく、研究によって生まれた。

 ――だから髪や目の色が少し変わっているし、へそもない。体もあまり丈夫ではない。

 ――ずっと地下で育ったのも、記憶がぼんやりするほどの大きな病気をしたのもそのせい。

 小学一年生でも理解出来るくらいまで噛み砕き、レイにとってあまりに残酷すぎる事実――リリス、肉体の複製、一度迎えた死――を隠し、私にとって都合の悪い事実――ユイとの関係――を伏せつつ語って聞かせた内容は、簡潔にいえばそんなものだった。
 紅茶は最初に一口飲んだだけで、後はずっとレイはティーカップを膝の上に載せたままだった。磁器を握る指先が微かに震えている。元々色白な顔は今や青白いまでになり、テーブルの一点に据えられているはずの視線は、その実、何も捉えきれずさまよっているかのようだった。

「レイちゃん……」

 泣きそうな顔でシンジがレイの腕に触れる。しかし名を呼ぶ以外のことは言えずにいた。

「レイちゃん……レイちゃん……」
「……シンちゃん……」

 小さな声が揺れて潤んだ。

「わたし……やっぱりみんながいうみたいに、へんだった……」

 気まずく落ちた沈黙。時計の秒針が刻む音がやけに大きく耳に届く。
 やがて意を決したように、強引に空気を吹き飛ばしたのは、私ではなく幼い子供だった。

「そんなのなんだっていいじゃん、レイちゃんはレイちゃんだもん!」

 私達の視線を集めながら、シンジは両手でレイの腕をしっかりと握る。

「ぼくはレイちゃんのかみも目もすきだよ? ロボットとなかよしになれるのもすごいとおもうよ? レイちゃんのこと、だいすきだよ? ね、とうさんもそうだよね? レイちゃんはぼくたちのかぞくだもんね?」
「――ああ、そうだ」

 そうだ。そうだな。
 シンジの真っ直ぐな瞳が諭してくれる。それこそが最も大事なことだと。
 手を伸ばし、レイの髪を出来得る限り優しく撫でる。空みたいだとシンジが評した青い髪。ユイの鳶色とは違う、レイの髪。

「お前も私の大事な家族だ。生まれなど関係ないし、例えロボットがなくなったとしても変わりはしない。私もお前が大好きだ」

 見上げてくる双眸を縁取る睫毛が、瞬きのたびに水滴を纏う。一滴、二滴、そして……。
 まだ手にしたままのティーカップをテーブルに移してやり、レイの頭を軽く叩くと、顔全体をくしゃりと歪めて本格的に泣き出した。

「ふ……ふえぇぇん……えぇぇん……」

 シンジに背中をさすられながら、拭いもせずにレイはただただ涙を流す。
 声を上げて。
 子供のようにという表現が思わず浮かんだ。


 ……あぁ、そうか。
 “レイ”がこんなふうに泣くのを私は初めて見るのだ……。


       「……嬉しいわ」

 ぽつり、と。
 横でリリスレイが呟く。

       「この子はこんなに早くに涙を知った……」

 産声さえも上げたことのないレイが、私達の目の前で泣いている。
 嬉しいというリリスレイの声音は、感慨が篭りすぎて『嬉しい』の一言では間に合わないくらいに聞こえて、私はそちらを向かないでおいた。
 やがてだいぶ経ってから振り向くと、リリスレイは既にどこかに消えていた。



 レイは泣いて、泣いて、泣き続けて、それから鼻を噛んで、シンジに手を引かれて顔を洗ってきて、私が新しく淹れた紅茶をゆっくり飲んだ。
 夜には私とシンジとで家中の絵本を集めてきて、二人してレイに片っ端から読んで聞かせた。眠りに就くまで、ずっと。







「……そうか。話したのか」

 翌日。所長室で事の顛末を語って聞かせると、冬月は痛ましげに眉根を寄せて窓の方へと歩いていった。今日は昨日と打って変わってよく晴れている。外の光が目に眩しい。

「それで、レイの様子は?」
「泣くだけ泣いてすっきりしたのか、少し気持ちが落ち着いたようだ。いつも通りシンジと登校したよ」

 しかし出生を知り、自分自身に対する理解に繋がったとしても、レイを取り巻く環境に変化があったわけではない。今朝になって戻ってきたリリスレイも、机にもたれかかりながら悲しげに同意する。

       「学校を覗いてきたけど、人間関係は何も変わってないわ。
        何も……」

 そう、異端視されている事実に変わりはない。圧力を掛けて周りの児童を黙らせるのは簡単だが、根本的な解決には至らないだろう。権力を駆使しても及ばない領域を如何にするべきか。
 冬月も思案に沈む面持ちだった。

「こうしてみると、お前の案に従ってよかったのかもしれんな。最初からレイの立場を限定しないという……」
「ふん、ようやく認めたか」

 しばし私達の視線が交錯し、リリスレイがじとりと目をくれてくる。

「許婚はロマンだと思ったんだがなぁ……」
「古い、お前の考えは古すぎるのだ、冬月! 今のトレンドは“家庭の都合で女の子と同居することになりました”、これだ! 結婚相手として決まっているからくっつくのではなく、嬉し恥ずかしハプニングを積み重ねることでくっつく――これこそが今時の若者の求める恋愛像だっ!」

       「力説しないでよ、恥ずかしいっ。
        本当に何に基いたデータなのよ、それはっ?」

 何度目かの罵声は今回も無視。私はレイの幸せを考えて行動しているのだ、余計な口出しはしないでもらおう。
 レイには充実した学校生活を送らせてやりたい。寂しい思いはさせたくない。
 そのためには――

「……冬月。以前提唱したあの計画、推進しようと思う」
「あれをか……。彼女の説得はどうする? おそらく容易ではないぞ」
「問題ない。手は考えてある」





「頼む、リツコ君! 来週の運動会、私と冬月の代わりに参加してやってくれ! この通り!」
「はあっ?」

 机に頭を押し付けんばかりの私に「どんどんプライド捨ててるわねぇ」とリリスレイは半ば呆れて半ば感心し、リツコ君は目を白黒させた。

「小学校の運動会、ですか……? 何故私が……」
「私は前日から委員会に出席しなければならんし、冬月は政府との折衝を抱えている。今、関係をこじらせるわけにはいかんからな」
「だからといって何も私に白羽の矢を立てずとも……。あの子達とは月一回のメディカルチェックで顔を合わせる程度の関係ですよ? もっと馴染みのある方がいらっしゃるはずでは?」
「ハウスキーパーを頼んでいた女性は、親の介護の都合で遠くへ引っ越してしまった。保安部の強面は小学校では激しく浮く。それこそヤクザの一味と噂されるだろう」
「しかし――」
「君にお願いしたいのだ。他の誰でもなく、君に」

 注意深い、警戒さえ交えた視線が私に注がれる。

「入所前から君は注目を集めていたよ。技術開発部で、君が大学時代に発表した論文を読んでいない者はいないだろう」
「……恐れ入ります」
「近い将来、赤木ナオコ博士の右腕としてゲヒルンの中核を担うものと誰もが思っていた。ナオコ博士が不幸に遭い、事情が変わったとはいえ、一度抱いた意識はそう簡単には変わりはしない」
「何がおっしゃりたいのですか?」

 リツコ君の眼光が鋭さを増し、リリスレイが溜息に似た声を漏らすが、かまわず私は先を続けた。

「若輩ということで君は遠慮し、他の所員は赤木の姓を持つ君に遠慮している。結果ぎこちなさが漂い、開発面での遅れの遠因となっている。歓迎出来ない事態だ」
「私に問題があると……?」
「今の状態が続くよりは、君に技術部の長として辣腕を振るってもらいたい」

 さすがに驚いたらしく、大きく目が見開かれた。

「何をいきなり……私はまだ入所一年にも満たない人間ですよ?」
「ゲヒルンは年功序列の組織ではない。実力ある者が上に立つ。そうでなければ予測される災厄を乗り越えられはしない。この半年、君の仕事ぶりを見てきたが、力を発揮しきれているとは到底思えん。相応の地位に就くべきだ」
「もっともらしいことをおっしゃっていますが、御自分にとって都合のよい人間を周りに置きたいだけではないですか?」
「否定はしない。そういう狙いも確かにあるからな」

 そら見たことかとばかりにリツコ君が顎を上げる。皮肉なことに、一研究員として働いている時よりも今の方が彼女の表情は生き生きしていた。

「だが結果的にそれが多くの者の幸福に繋がれば、言うことはないと思わないかね? 何も今すぐというわけではない、然るべき期間は置こう。しかし君は特別な期待をかけられているのだと早めに周囲に示した方が、抵抗も抑えやすくなる。その意味でも――」
「運動会を見に行ってやってほしい、ですか」
「そうだ」

 恥も外聞も気にせず頷く。リツコ君は侮蔑を通り越して怒りで肩を震わせた。

「子供達にとっては初めての運動会。保護者が誰も来ないのでは寂しすぎる」
「本当に所長は自分勝手な方ですね……! 公私混同という言葉を御存知ですか!?」
「勿論有給扱いだ! 手当も出すぞ!」
「そういう問題ではありません! 金で釣れるだなんて見くびらないでください! 大体所長は――」

 不毛な言い争いが白熱しかけたところで急に所長室の扉が開いた。入ってきたのは、

「とうさん! リツコさんをこまらせちゃダメ!」
「シンジ? レイ? もう学校も終わりの時間か……って、いや、そうではなく。ここには勝手に来るなと言ってあるはずだ、向こうへ行け」
「だってふゆつき先生にいわれたんだもん。とうさんのことだからぜったい、まともなせっとくなんかできないだろうって」

 二人に続いて入ってきた人物を忌々しげに睨み付ける。

「冬月……私をどういう目で見ている」
「事実だろう? それとも和気藹々と話が進んでいたのか? だとしたら邪魔立てをしてすまなかったな」

 ぬけぬけと言ってくるのが憎たらしい。ああ、そうですよっ、どうせお察しの通りこじれていましたよっ。

       「拗ねてみせても可愛くない」

 うるさい! 人が苦労している時には助け舟も出さなかったくせに、つまらん時だけ口を挟むな!

       「子供達の方が遥かに立派ね」

 見ると、シンジとレイはとことことリツコ君の前に歩いていって、ぺこりと頭を下げた。

「とうさんがムリなおねがいをしちゃってごめんなさい」
「ごめんなさい、リツコさん」
「え、いえ……」

 私に対しては辛辣でも子供達にまで鬼ではない。リツコ君は戸惑いの色を浮かべる。むう、確かにリリスレイに嘲られても仕方がないか……。
 うんうんと頷きながら冬月が場を仕切り始める。

「すまなかったな、リツコ君。止めても聞かなくてな……。ここはもういいから仕事に戻ってくれたまえ。碇には私達が言っておくから」

 私『達』という一語に甚だ嫌な予感を覚える。レイの困ったような視線とシンジの冷たい視線が突き刺さってきた。
 「因果応報よね」とリリスレイが他人事な口調で告げた。





 ……小一時間の説教を食らった日から二日が経ち、三日が過ぎた。
 運動会は刻々と迫ってくる。しかしリツコ君の説得は出来ずにいた。ゲヒルンでは冬月にたしなめられるまでもなく激務続きで会えずにいるし、家に帰れば帰ったで、

「とうさん、リツコさんにしつこくしてない? してたらぼく、おこるよ?」

 ……こんなふうにシンジがくどくどと注意し、意欲を削いでくるからだ。

「していない。安心しろ」
「だったらいいけど」

 いっぱしの口を叩いて、自分の体とそう変わらない大きさの掃除機を動かす。レイは私達の会話に耳を貸しながら濡れ布巾でテーブルの上を拭く。そして私は高所のほこりを落とす。ハウスキーパーに辞められて以来、家事は三人で協力し合って行っていた。協力しようのないリリスレイはまだ外を遊び歩いていた。
 新しく人を雇い直すことも出来たのだが、シンジとレイは賛同しなかった。同級生の多くは家の手伝いをしているらしい、自分達も自分達のことくらいやる、と。実際、トースターを操作してパンを焼き、マーガリンを塗り、牛乳を電子レンジで温めるくらいの作業はこなしてくれた。後は私が卵を焼いてレタスやトマトを添えれば、簡素ながらも朝食の完成である。小学校は給食制なので弁当を作る必要はないし、片付けは全自動食器洗い機にセットすれば済む。二人とも目覚まし時計通りに何とか毎朝起きてきてくれるので、思ったほど出勤前は戦場とならなかった。
 夕方は夕方で、子供だけで留守番をさせるわけにはいかないため学校が終わった後はゲヒルンへ来させ、宿題をしたり保安部員と遊んだりで――私の子供兼チルドレンの警護がてらだから立派な仕事だ――二人には待っていてもらう。夕食は所員用の食堂や街のレストランで済ませてから帰宅。風呂はすぐに沸くし、洗濯は全自動洗濯乾燥機で一時間もあれば完了。掃除も毎日少しずつこなしていけばそう負担にはならない。私が家を空ける時は冬月に預け、冬月も駄目な時はゲヒルン内の仮眠室に泊まらせた。
 やってみると日々の暮らしは案外スムーズに運んだ。何事も慣れである。二人が成長すればもっと楽になるだろう。
 しかし運動会への出席という問題は如何ともし難かった。

「……リツコ君に来てほしくないのか?」

 思えば二人の意向そのものは確認していなかった。問い掛けるとシンジは落ち着きなく視線を動かし、言葉にならない呟きをモゴモゴと発する。

「……きてほしい」

 シンジの分でもあるかのように、小さいながらも明瞭な声で答えたのはレイだった。

「せっかくのうんどうかいだもん。かけっこのれんしゅうとかいっぱいしたから、みにきてほしい……」
「だったら――」

 私が言い募るのに「でもね」と被せる。

「むりやりおねがいするのはよくないの。おじさまがいろいろかんがえてくれてるのはうれしいけど、やっぱりよくないの。そこまでしなくてもだいじょうぶだから……ね?」

 健気にも笑顔を作る姿に目頭が熱くなる。何とかしてやりたい。だがその何とかを本人達が止めるのであれば致し方ないのか。私にはこうしてほこりを払うことしか出来ないのか。私自身が行ければいいものを、おのれ議長め……いや、確かに今回、休日にも関わらず委員会が招集される羽目になったのは私率いるゲヒルンの不徳によるところとは認めざるを得ないが、しかしだな……。
 電話の鳴る音で我に返る。シンジが掃除機を止めて私を見る。噂をすれば何とやらで、まさか委員会からの呼び出しではないだろうな?
 戦々恐々と出てみると、聞こえてきたのは意外な人物の声だった。

「リツコ君……?」
『夜分遅くに失礼します』

 慌ててしっかりと耳に当て直す。

「いや、気にしなくてかまわんが、どうしたのかね?」
『あれから考えたのですけど、所長より御依頼されました件、お受けしようと思いまして』

 パッと視界一面に花が咲いた――そんな気分だった。

『お断りしておきますが、運動会への出席の件だけです。立場云々に関してはまだまだ納得いきかねますので』
「分かった、そちらは今後あらためて協議しよう。引き受けてくれたことに心から感謝する。礼を言うぞ、リツコ君。もう駄目かと思っていたからな」
『私も応じるつもりは全くありませんでした。ですが……』

 冷たく事務的だった口調が、初めて情感を帯びる。

『……誰にも見てもらえない運動会は寂しいだろうと思いまして。私の場合は祖母が来てくれましたけど、それでも……寂しかったですから……』

 何と答えるべきか迷っているうちに、では失礼いたします、ときびきびとした声を一つ残して通話は切られた。
 振り向くと、シンジとレイが期待で紅潮した顔で私を見ている。数秒後の歓声が今から聞こえるようだった。





 日曜日。
 委員会が休憩に入るや急いで飛び出し、通信室へ向かう。ゲヒルンを呼び出すと、リツコ君とシンジとレイがすぐに画面いっぱいに映った。

『あのねあのね、とうさん! リツコさんとおやこににんさんきゃくやったんだよ! 3いだったよ、3い! いっしょにひょうしょうだいにのぼったんだよ!』
『みんながね、リツコさんのことキレイ、キレイっていってたの! どこのいえの人かなぁ、っていってたから、わたしたちのおねえさんみたいな人なのよ、っておしえてあげたら、いいなぁいいなぁってみんなうらやましがってたの!』
『リツコさん、大にんきだったんだから! どこのおかあさんよりわかいんだもん!』
『先生もリツコさんにみとれてたの! プロポーズするかも、ってみんなとはなしたのよ!』

 楽しかったか?などと尋ねるまでもない。興奮して口々に喋る二人の様子が、この半日を如実に物語っていた。
 Tシャツにジーンズというラフな服装のリツコ君は、まくし立てられる内容に首まで真っ赤に染めていた。普段は立場の自重に繋がる若さが、今日は注目と羨望の的になるとは思っていなかっただろう。私もそこまで計算していなかった。

『大袈裟ですよ、この子達ったら……話半分程度にお思いくださいね。ともあれ、無事に終えてまいりましたので』
「ああ、そのようで何よりだ」

 私達の遣り取りを脇に押しやる勢いでシンジとレイはなおも喋り続ける。

『リツコさん、おべんとうもつくってきてくれたのよ! おさかなニガテだったけど、リツコさんのはたべられた! とってもおいしかったのよ、おじさま!』
『祖母から仕込まれたので、煮物には割と自信があるんです……』
『あのね、ふゆつき先生もきょうはおそくなるんだって! だからとうさん、ぼくたちリツコさんのいえにとまっていい?』
『すみません、何となくそんな流れになって……』

 恥ずかしがって恐縮しているリツコ君。もはや、こう……口を挟む余地がないというか、実の親で計画立案者な私置いてけぼりというか……。

「……迷惑はかけんようにな」

 やったー、と跳び上がって喜ぶ二人。リツコ君は真っ赤な顔のまま、では失礼いたします、と頭を下げてそそくさと通信を切る。一気に室内が静かになった。
 もしかすると向こうの通信機の前にはリリスレイもいたかもしれない。さすがにモニター越しでは私の目にも映らなかったが、あいつが運動会を見に行っていないはずがない。今頃子供達のテンションの高さに圧倒されつつ、喜びを噛み締めているのだろうか。私と同様に。
 椅子から立ち上がって肩を回し、腰を捻る。体のあちこちで節が鳴った。これからまた陰険な会議の席に戻るのか。やれやれだな。
 一生懸命足並みを揃えて二人三脚をするシンジとリツコ君、声を張り上げて応援するレイ――そんな想像で口元を綻ばせてから引き締めて、通信室を後にした。







 二〇一〇年。MAGIは完成の日を迎えた。
 前の世界より二ヶ月ほど遅れたが、二ヶ月の遅れで済んだというべきだろう。その陰にはリツコ君の多大なる働きがあったことは誰しもが認めるところだった。

 そして同日、ゲヒルンは解体。特務機関ネルフが誕生した。





 久しぶりにゆっくりと過ごしていた休日の午後。リリスレイはラジオを聴き終わった後どこぞに出掛け、シンジは商店街に買い出しに行った。私と二人だけになるのを待っていたかのように――リリスレイのことは預かり知らぬだろうが――レイがもじもじと指先をいじりながら寄ってきた。

「あのね、おじさま。おねがいしたいことがあるの」

 小学三年生になったレイ。はにかんだ笑顔の愛らしい少女に育った。学校生活も順調らしく、夕食の席ではシンジ共々、その日の出来事をよく語ってくれる。

「何だ? 言ってみるがいい」
「ん……ちょっと言いにくいんだけど……」

 恥ずかしそうに切り出してくる。

「あのね、子ども部屋にしきりを作ってもらえないかなぁって……」
「仕切り? 何か不都合でもあったか?」

 子供部屋は現在レイとシンジが共同で使っているが、広さでも家具でも不自由はさせていないつもりだ。
 しかしレイによるとそういう問題ではないらしい。

「だってもう三年生だもん。みんな新しい部屋をもらったり、お兄さんや弟から見えないようにカーテンをつけてもらったりしてるんだって。わたしもねているところやきがえてるところをシンジに見られないようにしたい。だめ?」

 ふむ。男女の別を気にする年頃になってきたわけか。

「どうせ部屋なら余っている。そのうちの一つをお前専用にしよう」
「ありがとう、おじさま!」

 まさに花が綻ぶような笑顔。私の知るかつてのレイとも、勿論リリスレイなどとも違う可憐さがある。私の頬も自然と緩んだ。

「そういえば最近、シンちゃんレイちゃんと呼び合わなくなったな」
「やめさせたの。子どもみたいなんだもん」

 子供だろう、と返したくなったが自重する。この歳にはこの歳の考え方があるのだろう。余計な口は挟まず、一歩引いた位置から見守るのが私の務めか。
 「それからね……」とレイは照れ笑いをしながら続ける。

「おじさまとシンジとおフロに入るの、もうやめる」







「……碇。夜中に一升瓶を抱えて人の家に押し掛けてくるな」
「うるさいっ、貴様に私の気持ちが分かってたまるかっ!! レイが……レイが自立していく……」
「次は『おじさまのパンツと私の服を一緒に洗わないで!』か? 楽しみだなぁ、碇?」
「うおおおあおおおおぉぉぁぁぉおぉぉぉぉぉ……!!」

 その日の酒は、苦かった。



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