ダイニングに入って、惑う。朝食の準備が整えられたテーブルの脇と窓辺。それぞれに制服姿の娘が立っていて、同じタイミングで私を振り返る。向けてくる顔も全く同じ。
 テーブルの脇に立つ娘だけがにこりと笑う。

「おはよう、おじさま」
「……ああ」

 それでこちらがレイだと判別し、軽く顎を引いて応じる。窓辺のリリスレイは、私を見ていても何の得にもならないとばかりにさっさと逆方向へ首を回す。今やベランダにずらりと居並ぶまでに増えたアサガオがこいつのお気に入りだ。

「おはよう、父さん。ちょうど出来たところだよ、食べよう」

 シンジが湯気の上るご飯を運んできて、私達は食卓を囲む。根菜たっぷりの味噌汁に焼き魚、卵、かつおぶしをかけたほうれん草のおひたし、ひじきの煮物。いつもながら品目豊富な献立。朝食は一日の活力のもと、という理念にシンジは忠実だ。栄養学的な配慮を汲んでか、レイもほとんど好き嫌いを言わなくなり、私共々健康状態は良好である。
 テレビでやっている不景気なニュースを見ながら食を進める。

「父さん、今日はゆっくりでいいの?」
「ああ。その分帰りは遅くなる。私の夕食は作らなくていい」
「分かった。大変だね、いつも」

 まあな、と答える間に私とレイの視線が交わる。

「レイもまた八時過ぎになりそう?」
「うん、多分。先に食べてて」
「いや、いいよ。待ってる」
「無理しなくていいわよ。お腹すくでしょ?」
「大丈夫、空腹時の方が頭も回るらしいし。とか言って、レイの帰りまでに宿題が終わってなかったらカッコつかないけど」

 それぞれの口から笑い声が上がる。屈託もたわいもなく吹き飛ばせるのは若さの強みか。
 芸能コーナーが始まると二人はそちらに話題を移す。最近の芸能界事情などまるで付いていけない私はただ箸を進める。おそらくはごく平凡な、朝の家庭の光景。レイに重なるようにして離婚報道に見入っているリリスレイさえ除けばだが。
 やがて食べ終わった二人は手早く食器を片付け、登校の支度を整える。

「父さん、お湯はポットに入ってるから。その辺に新聞ほったらかして出掛けないでよ。それから――」
「……早く行け」

 まだ何か言いたげなシンジの袖を、クスクス笑いながらレイが引っ張る。

「じゃあ、おじさま。また午後に」
「行ってきます」

 二人が出て行くと途端に溌剌とした空気が消え、辺りが広く感じられる。テレビでは降水確率0%、予想最高気温33度を告げていた。また真夏日か、と晴れ渡った空を恨めしく思う。
 ポットの湯で茶を淹れる。先に湯飲みを温めるような真似はしない。面倒な手順を踏まずとも茶は美味い。熱い湯飲みを手にしてテーブルに戻り、新聞を広げる。金利の引き下げ、某国での長引く紛争。いつもと変わり映えのしない記事。論説では国連資金の無駄遣いを取り上げていた。大きなお世話だ。
 ちらりと見ると、リリスレイはテレビの正面に陣取り連続ドラマの視聴に備えていた。可能ならば煎餅でも齧っていそうな風情である。

       「醤油味のものがいいわね」

 相変わらず小生意気で愛想の欠片もない。レイとは違いすぎる。だが、顔は同じ。
 新聞を捲りながら、かねて思っていたことを口にする。

「……制服以外の格好をしたらどうだ? レイと見分けがつかん」

 それくらいは造作もないはずだ。学校に通ってもいないのに制服で居続ける必要はない。
 年頃の娘であるレイは外出時のみならず家でも様々な服を着る。しかし変に派手派手しくはなく、可憐、もしくは清楚、もしくは健康的という傾向にあるのが何よりだ。去年ネルフの式典参加に合わせてドレスアップし、化粧までリツコ君に施してもらって喜んでいた姿は記憶に新しい。
 着飾ったレイは微笑ましく愛らしく、今は失われた春の芽吹きの頃を思い起こさせる。淡くも華やかな色彩が内側から満ち溢れているようだった。

 その向こうに――
 灰色のコンクリート壁に囲まれたかつてのレイを見る。

 制服。プラグスーツ。検査着。患者服。モノクロ写真のような印象ばかりが焼き付いている。
 一人目には女児服を買い与えもした。装わせて愛でた。だが二人目以降に買ってやったことはなかった。与えたところで、可愛がったところで、いずれは無に帰すと気付いたからだ。地下施設を出て一人暮らしを始めてからも、自主的に小洒落た服を購入したとは思えない。おそらく最後まで外出着らしい外出着など持っていなかっただろう。
 この“レイ”は。

 ……リリスレイは感情の読めない瞳でしばしこちらを見つめた後、おもむろに立ち上がる。そしてその場でくるりと一回転した。次の瞬間、見慣れすぎた格好が、黄色いベストに赤いネクタイ、短めのスカートという出で立ちに変わる。

       「――リナレイ、もしくはスポ根バージョン」

 何故星飛雄馬が出てくるんだと思っているうちに、七巻中表紙バージョン、八巻中表紙バージョン、三鷹市ポスターバージョン、鋼鉄2ndドレスバージョン、などと呟きながら次々に姿を変えていく。意味は分からんがどれも悪くない。無表情なのが玉に瑕だが。
 しかし十何回目かの変化で元の第壱中学校の制服姿に戻ってしまう。

       「あなたを楽しませても仕方ない」

「何だ、その言い草は!?」

 謝れ、謝らないと喧嘩を繰り広げ、ドラマ開始と同時に自然休戦に突入する。
 束の間息を抜き、直視しなければならない事実を一時忘れる。

 リリスレイとレイの区別がつきにくくなったことは、レイとシンジがその歳に達したという事実を示していた。





贖罪 〜彼の歩む道〜

episode 6





 もう来ても良いとリツコ君より連絡を受け、ターミナルドグマへ赴く。途中で行き会ったレイはまだ少し髪が濡れていたが、すぐに乾くから大丈夫、と軽やかに笑って去っていく。これから射撃訓練がある。私はそのままドグマを進む。
 部屋に入るとリツコ君がデータを提示してきた。その表情は納得がいっていないと自ら語っている。

「……ダミーシステムの開発状況は、目標数値の72%に留まっています。申し訳ありません」
「謝罪の必要はない。よくやってくれている。零号機の起動実験が成功すればデータも飛躍的に集まるだろう」

 元々目標設定が高すぎたのだ、使徒襲来前にダミーシステムを完成させようなど。それでももし可能ならばと思い、進めてきた。
 部屋の中央にはカプセル。先程までレイが身を浸していたはず。ダミーシステム開発のためにここでパーソナルデータを収集するのだと説明してある。リツコさんだけが立ち会うなら――その条件の下、恥ずかしがりながらも協力を了承してくれたレイは、同時に自分の記憶のバックアップまで取られていることは知らない。
 リツコ君がスイッチを押すと壁がせり上がっていく。オレンジ色の光。水音。レイと同じだけ成長を遂げた器達。
 目視の限り水槽内に異常はない。リツコ君がセンサーの示す数値を確認し、不純物を除去していく。
 彼女が信を置く数名の技術部員だけが、ダミーシステムの開発に携わっている。これこそが核となることも知っている。可能な限りパイロットに似せなければエヴァを騙せない、パイロット本人を戦禍から護るためのダミーシステムだ――そう説いて理解を求めている。
 クローンの存在をレイは知らない。
 レイ自身もクローンであることを技術部員達は知らない。

 騙して、誤魔化して、隠蔽して。辛うじて現在は成り立っている。
 近い将来に現れる使徒と戦うためだと。サードインパクトを防ぐためだと。まだ巣立ちの時期も迎えていない娘や正義感に燃える若者を言いくるめて、我々の組織は成り立っている。

「……この光景からは未だに目を背けたくなります」

 パネル操作を続けながらリツコ君が呟く。
 また一つ鈍い水音が上がる。

「嫌なことばかり思い出すんですよ。レイの死体とか……母が身を投げるところとか」

 上辺は淡々としている声が、逆に感情の深さを伝える。

「レイのことは好きですよ? でもカプセルに収まっているあの子を見ると、どうしてもダミーが重なります。本当に魂があるんだろうか、次の瞬間にはダミーのような虚ろな表情に変わるんじゃないかって。今生きているあの子が本物なら、あの時死んだレイは何なのかとも考えます。理屈は理解していますけれど……」

 彼女にだけはほぼ全ての事実を明かしてある。ユイのことも含めて。
 ゲヒルン入所前に与えた衝撃に比べれば小さいことなのか、いちいち騒ぎ立てもせず受け止めていったリツコ君だったが、それが即ち全てを容認した証にはならない。ユイを直接知る私や冬月とは、そもそも最初から立ち位置が異なるのだ。

「あの子と接していると時々怖くなります」
「……苦労をかける」
「全くです。でも結局のところ――」

 私に向けた顔に、温かな苦笑とでもいうべきものが浮かぶ。

「可愛いんですよ、あの子が」















 遠い、遠い日。ユイと海へ出掛けたことがある。
 穏やかに凪いだ海原が私達の前に広がっていた。

 ――綺麗ね……

 賛嘆の声も。
 繰り返し寄せてくる音も。

 ――波が綾を成して綺麗ね……

 今でも耳の奥に残っている。















「何を考えている?」

 公務室に戻り、機械的に書類に目を通していても頭には全く入ってこない。詰め将棋をする手は休めないまま、見透かしたように冬月が問い掛けてくる。

「レイとシンジのことだ」

 もはや精励を装うことも放棄し、書類を投げ出す。

「実際、二人の関係はどうなのだろうな」
「……他に考えるべきことは多いだろうに、随分ととぼけた悩みだな」

 冬月は皮肉げに口元を曲げ、先程より大きめの音で駒を置く。

「悩ましくもなる。二人の子供を見るというのが我々の出発点だぞ? 幸いなことにリツコ君も説得可能な芽が出てきた。現段階での状況は把握しておきたい。果たして家族愛の枠内に留まっているのか、あるいは恋愛的な感情も混じっているのか。場合によっては我々が積極的に後押しをして――」

 今はリリスレイすらこの場にいない。良い機会なので徹底的に協議をしたかったのだが、冬月は本を膝の上に置くと、熱の入らぬ物腰で背もたれに寄りかかってしまった。

「保安諜報部から泣き付かれている。チルドレンの留守中を狙って盗聴器を仕掛けろと命令された、とな」
「……いや、私がやってもいいのだが、勝手に部屋に入ったとバレたらシンジに怒られるし、レイに悲しそうな目をされるし……」
「同級生に探りを入れるようにも命じたそうだな」
「学校での様子も知っておこうかと……」
「二人に連絡しよう」
「待て待て待て待てっ!」

 携帯電話を取り出そうとする腕に慌てて取り縋って止める。

「『自分達はサードインパクトを起こさないためと思えばこそ、後ろ暗い仕事にも励んできたッス! それが街の下世話な探偵社みたいな真似をさせられるなんてあんまりッス!』と泣いていたぞ!? 親として司令として恥ずかしくないのか!?」
「分かった、私が悪かった! 命令は撤回する! だからどうか二人にだけはっ!」

 平謝りして許しを請う。つくづくリリスレイのいない時でよかった……。

「だが冬月よ……お前は気にはならんのか?」

 以前は私に負けず劣らず妄想を巡らせていたのに最近はおとなしい。尋ねると、先刻のリツコ君とよく似た表情を見せる。

「子供云々の期待はもうオマケでいい。シンジ君もレイも元気に育っていってくれればそれでかまわんさ。今やあの子達の成長自体が私の喜びだ」
「……私は夢を捨てんぞ」
「お前の片意地ぶりは承知だ、好きにしろ。行きすぎないよう目は光らせるがな」

 飄々と言い放って冬月は再び本を開く。勝手に解脱されてしまって面白くなく、私はわざと椅子の音を立てて座り直した。また書類を手に取るも、やはり精読する気は起きない。冬月の言う通り、こんな形だけの仕事をこなすよりも考えるべきことが他にありすぎた。
 窓の外はとうに暗く、室内は薄明かりだけに包まれている。断続的に響くパチン、パチンという駒の音。私も何か趣味でも持とうかと、ぼんやり思う。休みの日でもこれといってすることがなく、そんな調子では早く老け込むとシンジによく言われる。探してみるか。全てが終わったら……。
 立ち上がって一言、「帰る」と告げる。返事も「そうか」のただ一言。ややあって「あの子達によろしくな」と付け足された。





 マンションに帰り着くと香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。

「夕食はカレーだったのか」
「うん。残りは肉じゃがにして明日の朝出すから、楽しみにしてて」

 風呂から上がったばかりらしいシンジがタオルで髪を乾かしながら語る。ユイの味とは違うが、シンジの作る肉じゃがも私は好きだ。

「レイはもう寝たのか?」
「と思うよ。風呂、まだ温かいから、よかったら父さんも入って」
「そうだな」

 脱いだ上着をソファーに放り出しかけて、突き刺さる視線に気付き慌てて抱え直す。よく出来ましたとでも言いたげな笑みを一転して浮かべ、シンジは冷蔵庫から牛乳を出してカップに注ぎ、電子レンジで温め始める。その様子をつい見つめてしまい、照れくさそうな顔を向けられた。

「何?」
「いや……」

 自分では口の回る方だと思っているのに、こんな時に咄嗟に出せるのは無難な話題ばかりだ。

「……学校はどうだ?」
「まぁ、楽しくやってるよ。レイも周りにちゃんと馴染んでるから心配しないで」
「そうか」

 安心すると同時に、おそらくそれはシンジのおかげなのだろうとも思う。絶対的な味方の存在がレイの心を支え、勇気づけ、周囲の偏見も緩和させているのだろうと。
 家でもシンジの果たす役割は大きい。小学校中学年になった頃には自ら家事の中心に収まり、部活にも入らず掃除や洗濯、夕食の支度に励んでくれている。のみならず、宿題や予習復習を早めに終わらせ、自分の後から帰ってくるレイにそれを教える。風呂もレイに先を譲る。少しでも睡眠時間を確保させるために。そうして自分は遅めに寝るにも関わらず朝は誰より早く起き、朝食も弁当も用意する。
 レイが学業とパイロット業を両立出来ているのは、間違いなくシンジの協力あってのことだ。シンジが家庭内を預かってくれているからこそ私達の生活は立ち行く。
 だが、それだけでは済まない時が近付いていた。

「レイは……お前に何か話していないか? ネルフのことで……」
「愚痴とか?」

 手近な椅子に掛けて牛乳を飲みながら、笑って否定する。

「言わないよ、レイは。せいぜい『疲れたー』くらい。父さん達に言えない悩みがあるなら聞くつもりでいるんだけどね、そういうのはなし。むしろリツコさんを気遣ってるよ。実験が終わった後で更にデータをまとめたりするから大変だろうなぁ、って。だから恋人もつくれ……あっ、僕達がこんな話してるのは内緒にしてよ!?」

 私も命知らずではない。重々しく頷いて約束する。
 子供達は子供達なりに考えている。それがありがたくもあり、心苦しくもある。

「やっぱりロボットの開発って大変なんでしょ? 何年もかかってるし」
「まあ、な……」
「人類を護る仕事じゃ妥協も出来ないだろうしね」

 シンジは知らない。一般市民を僅かに上回る程度の知識しか持たない。あくまで国連軍が主体と思っている。
 だから――

「僕も昔、実験の手伝いをしたことあったよね」

 いとも簡単に――

「必要ならまたやってもいいよ? 水に浸かるのはちょっと嫌だけど」

 ……そう言ってのけられる。

 分かっている。私が悪い。今に至るまで何も告げられずに来たのは、ひとえに私の臆病さのせいだ。
 水を怖がるシンジをLCLに沈めることを躊躇した。ユイを思い出された場合が怖かった。もう少し成長してから、もう少し、と思っているうちに、想像以上の早さでシンジは成長した。
 “ロボットのパイロット”に憧れる代わりに、レイを支えることを覚えた。
 仕事で忙しい私の代わりに、金銭管理に至るまで家の中のことを覚えた。
 寂しさを訴える代わりに、家族への気遣いを覚えた。
 だから余計に――「お前も乗れ」とは言えなくなった。



 大丈夫、とレイは笑う。戦ってみせる、と笑う。
 シンジがいるから。いてくれるから。
 背負った荷が人類と思えば重いけど、シンジと思えば軽いから。
 だから大丈夫よ、おじさま……



 ……沈黙を破ることが出来ない。「乗れ」の一言が言えない。
 シンジは緩やかに笑んで空のカップを手に立ち上がる。

「お風呂入って」

 小さくはないが大きくもない背中をただ見送る。
 結局私は……臆病なままだ。







 初号機パイロットの問題は先送りにし、現状揃っているもので実験を進める。ダミーシステムさえ完成すれば問題ないと自分に言い聞かせて。
 零号機起動を試みる段階は目前まで迫っていた。

 惨事の記憶は未だ風化していない。
 ――二度は起こさん。

 早速リツコ君と協議にかかる。プロトタイプなだけあって零号機のコアは不完全。制御面への不安は見解の一致するところ。この際、暴走の発生を前提として、パイロットへの精神汚染や物理的被害の拡大を食い止める方向に尽力する――そう話をまとめた。
 零号機の調整は彼女に託し、私は実験場の安全設計に取り組む。天井、壁、床、いずれにも衝撃吸収材を張り巡らし、窓も割れにくい素材へ変更した。勿論予算はかかったが、レイの安全を守るためとあれば冬月が反対するはずもない。総務部と各種交渉をこなしてくれた。そしてレイ自身は可能な限りスケジュールから外し、とにかく体調を整えることを優先させた。

 態勢を一つとし、着々と準備が進められていく。
 部署を問わず、ネルフ本部全体が緊張と期待とで包まれていく。
 汎用人型決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオン。人類の切り札。人類の希望。自分達が造り上げ、管理し、護っているもの。
 それがいよいよ動き出す――。





 起動実験当日。
 最終チェックのため前夜から本部に泊まり込んでいた私は、朝食もそこそこに管制室へ足を運んだ。実験開始予定時刻までは間があるため、他に人はいない。レイもまだ市内を移動しているところだろう。昨夜はちゃんと眠れただろうか。
 今から気が逸って落ち着かない。ずっと徹夜で調整を進めてくれたリツコ君達技術部の面々には充分な休息を取るよう伝えてあるが、言った私がこれではな。

       「柄にもないわね」

 背後から突然掛かる声に「放っておけ」と素っ気なく返す。来るとは思っていたので驚きはない。相変わらずの制服姿でリリスレイは私の隣に並び、実験場を眺める。
 零号機は既に搬入済みだった。カラーリングはオレンジではなく青。前の世界では第五使徒戦後からだった青色に塗装させていた。深い意味はない。ただの験担ぎだ。
 床には水を張る。例えエントリープラグが射出され、落下したとしても、衝撃は大幅に緩和されるはず。予備電源量も極力抑えてある。抜かりはない。後は、前の世界と全く異なる暴走にならなければいいのだが……。
 はたと、根本的な問題に気付く。

「そもそもあの暴走は何が原因だったのだ?」

 当時から不可解だった。レイの精神が安定を欠いていたとしても、あまりに異常すぎた暴走。苦痛にのた打ち回ったとも自傷とも取れそうだった、あの行動。
 問い掛けにリリスレイは顔を曇らせる。む、聞かれたくないことだったか?

       「……公式の説明がないのよね。
        張るだけ張って回収されなかった伏線の一つだわ。
        機体互換試験時の思わせぶりな描写も何だったのかしら。
        ちなみにこの作品では『零号機のコアには誰もいないよ説』を採っていますのでよろしく」

「何の話だ……?」

 そんなことを喋っていたらドアが開き、幾人もの人間が一塊になって駆け込んできた。先頭には冬月とリツコ君。皆、顔が青ざめている。

「どうした、何事だ?」
「碇……」

 よろめくような足取りで冬月が一歩、前に出る。

「レイが車に跳ねられて、意識不明の重体だ……」



 ……



 …………



 ………………



「ぉぉぉおおおおおおおおおおおっ、どこのどいつだ、犯人はーーーーっ!? 即刻連れてこいっ、八つ裂きにしてくれる!! よくも私のレイを……レイ……ええい、八つ裂きでも手ぬるいっ!! 火あぶり、打ち首、その他諸々全部追加だ!! 己がどれほどの罪を犯したか、骨の髄の髄まで徹底的に刻み付けてくれんっ!!」
「司令、気持ちは分かりますが落ち着いてくださいっ!」
「誰か、鎮静剤を持ってこい! スタンガンや麻酔銃でもかまわん!」
「レイーーーーーーーーーっ!!」

























【某巡査部長の手記より】

 午前八時二分頃、市内××の市道で交通事故発生。運転手がカーステレオの操作に気を取られて運転を誤り、歩道に乗り上げて歩行者の女子中学生一名を跳ねたというもの。運転手の×××××容疑者(二十一歳)はその場で逮捕。女子中学生は重体。
 被害者が特務機関ネルフの最重要人物であったことから、本件は交通事故の枠を超えた一大事態へと発展する。
 我々が現場へ到着した際には容疑者は既に、ネルフ保安諜報部諜報二課所属の男性二名(実名、階級の記述は避けておく)によって身柄を拘束されていた。その二名より被害者の身分を説明され、直ちに本署へ連絡。事態を伝える。同時に搬送用VTOL着陸に備え、現場の交通整理に当たった。
 間もなくVTOL到着。医師らによって被害者が機内に運び込まれる。諜報二課員一名、関係者と思しき男子中学生一名もこれに同乗。離着陸時に現場に大きな混乱はなし。一般市民に騒がれたのみ。
 諜報二課員一名同道の下、容疑者を本署へ連行。同諜報二課長立ち会いの下、取り調べを開始。事故原因は前述の通りと明らかになる。また本日未明、静岡県内で制限速度50kmオーバーで走行していた車が容疑者の物と酷似していたとの情報が入り、追及したところ事実を認めた。
 取り調べ中、容疑者は強い緊張状態にあり、謝罪と反省の言葉を幾度となく口にした。減刑の嘆願、より正確にいえば助命の嘆願も繰り返し述べていた。
 調書完成後、容疑者の身柄は速やかにネルフ側へと引き渡された。その後の動向は不明である。



【ネルフ非公式記録より抜粋】

 ――同日、碇ゲンドウ総司令の代理者として冬月コウゾウ副司令は×××××を技術開発部技術局第一課所属E級特別職員に任命。宿舎を第十三ブロックに定める。
 なお、E級特別職員職は今回初めて設けられたため、服務内容及び規定は同課所属・赤木リツコ博士に作成を一任し――



【技術開発部技術局第一課所属、I二尉の談話】

「あぁ、例の噂ですか? ええ、私も実験棟の奥で呻き声のようなものを聞いたことはあります。でもセンパイが言うには、古くなった機械がそんな音を立てているだけみたいですよ。それはそうですよね。あんな噂、いくら何でも荒唐無稽すぎますもん。若い男性職員が仕事場兼独房で昼も夜もなく働かされていて、しかも日給は百円なんて」



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