申し訳ありません、申し訳ありませんと保安部員が繰り返し繰り返し低頭のまま謝罪する。応じる間も惜しく、急ぎ足で前を素通りする。申し訳ありません、申し訳ありませんと背中に届く声は次第に嗚咽に似ていった。
 緑がかった廊下を進む。漂う消毒液の匂いが不快だった。案内されるままに病院内を進む。自分のものではないような感覚で足が自動的に動いていく。
 手術室前の長椅子にシンジが腰掛けていた。私を見て少し口を動かし、しかしそれだけでまたうなだれる。煌と灯る赤いランプが影を作っていた。黙ってその隣に座る。ぽつり、ぽつりとシンジが語り出す。すぐ近くにいたのだと。いつも通り一緒にマンションを出て、中学校とネルフとに分かれる地点で「頑張ってね」と手を振って、それぞれの道へと歩き出した直後に――。

「僕……近くにいたのに……」

 涙交じりに声が揺れ、膝の上で握り締めた手が震える。

「助けられなかった……レイを、僕……どうしよう父さん、レイが死んだら……どうしよう……」
「滅多なことを言うな」
「うん、でも……どうしよう、レイが死んだら嫌だ……嫌だよ……」

 後はもう言葉にならない。軽く背中を叩いてやった。
 冷房の効いた空気が寒ささえ感じさせる。扉の向こうではレイが這い寄る死と闘っている。待つしかない身がもどかしかった。シンジが一応の落ち着きを取り戻してもランプは変わらず灯ったまま。時間だけが刻々と過ぎていく。時折部下が様子を見に来るが、すぐに恐縮して下がる。私も何も言いようがない。無様に座っているだけの置物だった。
 何時間も何時間も壁と床との境付近に固定されていた視界。不意にシンジ以外の足が映り込む。音もなく現れた者。視線を上へ動かすと、手術室の中にいたはずのリリスレイが放心したような面持ちで立っていた。

       「助かったわ……」

 長く緊張を強いられ磨耗した精神は、すぐにはその意味を理解しない。ようやく喜びが湧いてきた頃、赤い光が消えて、反射的にシンジが腰を浮かせた。
 開いた扉からストレッチャーに乗せられたレイが搬出される。集中治療室に運ばれるのだろう。人工呼吸器や点滴など物々しい器具を取り付けられているが、それこそが生の証でもあった。続いて出てきた医師から、内臓の損傷が激しかったが一命は取り留めた、じきに意識も戻るだろうとの旨を説明されて、シンジが深い安堵の息をつく。しかし全治まで要する日数を聞かされると再びその顔は曇った。
 医師が去り、時計を見る。もう夜だった。

「シンジ、お前は帰って休め。私も本部に戻る。おそらく泊まりとなるだろうから気にせずに寝ろ」
「うん……」

 頷きはしてもそんな気分にはなれないといった風情。待機していた保安部員を呼び、マンションまで送ってそのまま泊まり込むよう命じた。一人でいるよりは気も紛れるだろう。
 シンジ達が行った後、事故当時の担当だった保安部員二名の処分をどうするか諜報二課長から尋ねられた。申し訳ありません、申し訳ありませんという声が甦る。
 先程シンジを送っていった者も含めて諜報二課員は全員、子供達を幼い頃より知っている。警護し、監視すると同時に、ある時は遊び相手を、またある時は家庭教師を務めた。私がそうさせた。目の前にいる男も例外ではない。面積の求め方など忘れてしまいました――そう苦笑していたのを覚えている。
 鉄面皮が僅かに剥がれ落ちている。サングラスの向こうに苦渋が覗く。
 当事者二名と彼と私――計四名の減棒処分を伝えた。





 内外で発生した事案とその対処を冬月より聞く。問題視するべきことは特になく、今後取るべき方策についても意見の分かれることはなかった。
 それでも公務室を出て本部内の仮眠室に辿り着いた時には既に午前三時近くになっており、積み重なった疲労は上着を脱ぐ手間さえ億劫に感じさせ、倒れ込むようにそのままベッドへ横になった。襟元だけ緩めて目を閉じる。しかし面倒なことに眠りはすぐには訪れなかった。神経を消耗しすぎたせいもあるだろうし、他にも原因があるのだろう。
 瞼を開け、横に目を遣る。部屋の照明は落としてあるが、ベッドに背を向け、床の上で膝を抱えるリリスレイの姿は見えた。普段は私が寝る頃になると挨拶もせずにどこぞへ消えるのに、今日は病院からここまでずっとついてきていた。何かを喋るわけでもなく、ただ悄然と俯いて。やがて聞こえてきた声はか細かった。

       「私が零号機に乗るわ……」

 宣言と呼ぶにはあまりに覇気に欠けていた。

       「使徒とも互角以上に戦える……」

「そうだろうな……」

 動きの鈍くなった口で一音ずつ紡ぐようにして応じる。
 こいつなら零号機に直接宿ることもダミーを介して操ることも可能だろう。シンクロ率もおそらく思いのまま。各使徒の特性も把握している。単機でも危なげなく戦えるに違いない。

「だが周囲にはどう説明する? 全て暴走で済ませるか? 早晩、凍結命令が下るな」

       「ゼーレは何とでもなるわ、使徒さえ倒せば――」

「問題は他にもある。お前が零号機を器とすれば、ほぼリリスそのものだ。一つの世界に複数のリリスがいて障りはないのか? レイの存在自体を危うくしたりはしないのか?」

 言及されて初めて気付いたのだろう。リリスレイは俄かにうろたえる。

       「それは……多分……」

「多分では困る。お前に世界を滅ぼされては洒落にもならん」

       「でも、このままじゃ……!」

 こちらを向いて、そしてまた膝に顔を伏せる。漏れ出てきたのは悔悟の念。

       「……こんなことになるなんて思わなかった……。
        同じ通りに進むとは限らないと分かっていたはずなのに、
        回避や軽減の可能な危険しか頭になかった……。
        歴史を変えることであの子達を死なせる可能性もあるって……考えてもみなかった……」

「……それは私も同じだ」

 未来の全ては予測出来ない。計算外の要素はどこからでも生まれ、どこにでも潜む。頭の中でどれだけ必死に考えたところで、巡ってくる現実は大抵想像の埒外だ。
 それでも希望を繋ぐとすれば――

「……レイもシンジもまだ生きている」

       「だけど、このままじゃ……」

 そう、このままだと。ダミーシステムは未完成で弐号機はドイツが手放さないという現状で、取れる方策はただ一つ。
 リリスレイはしがみ付くように両腕で膝を抱きしめている。手を伸ばしてその頭を撫でたら、やはり嫌がられるだろうか……。
 本人の回答は得られなかった。忽然と現れた睡魔が私の意識を、泥のような眠りの中へと沈めていった。





 目が覚めたのはまだ朝と呼べる範囲の内。状況に変化は起きていなかった。良くも悪くも。
 後事は冬月に託し、病院へ赴く。既に先客がいた。私と顔を合わせたシンジは気まずそうにする。

「学校はどうした」
「心配だったから……」
「朝食は?」
「食べたよ。あり合わせの物ばかりで申し訳なかったけど」
「ならいい」

 さすがに顔付きは晴れなかったが、暗澹としてはいなかった。昨日はあの後、ラーメン屋に連れて行ってもらったという。何くれとなく気遣われ、その優しさにまた少し泣き、しっかりしなければとようやく思えた、携帯には同級生からの心配するメールがたくさん来ていた――そう語っていくうちに表情も幾分柔らかくなった。
 ガラス窓の向こうでレイは眠っている。医師と看護師が油断なく傍に控えていた。人材も設備も最高水準、任せて問題はないだろう。私達に出来ることはここにはない。

「……シンジ」

 誰の目にも留まらずとも枕元についているリリスレイが、悲しげな顔でこちらを見ている。レイを頼むと心で告げた。

「お前の力を貸してほしい」
「ああ、大事な実験があったんだよね? いいよ、僕に出来ることなら」
「――出来る」

 努めて冷静さを保つ。

「お前にしか、出来ない」





贖罪 〜彼の歩む道〜

episode 7





 整備班はあらかじめ下がらせていた。ケイジで私達を迎えたのはリツコ君一人。

「……シンジ君」
「はい……」

 他人行儀な呼称、真剣さと憂いが半ばする表情。常とは違った雰囲気の彼女に、シンジが心持ち姿勢を正す。

「これが人造人間エヴァンゲリオン、その初号機。私達が造ってきたものよ」

 あらためて仰ぎ見る。アンビリカルブリッジの中央からだと、まともに相対する格好となる。威容に圧倒された様子だった。

「思ってたよりずっと大きいな……。頭だけでこの大きさなら、全身だと……」

 そろそろと端に寄り、首を伸ばして下を覗き込んですぐに身震いし、後ずさる。高さ――正確には深さ――よりも水の方が恐ろしかったのかもしれないが。

「人造人間ってことはロボットじゃないの?」
「正確にはね。機械も組み込んでいるけれど、装甲の下は大部分が筋肉や骨格から成っているの。血液だって流れているわ。ヒトに極めて近い構造なのよ」
「人に……そうか、だから心を通わせることも出来るんだ」
「そんなところね」

 リツコ君は慎重な口振りで受け答えをする。シンジは幸いそこに不自然さを見出さず、素直に感心していた。

「それで、僕は何をすればいいの?」

 真っ直ぐな目が私を向く。どれだけ言いにくくさせているかも知らず。

「……乗って、戦ってほしい」
「戦う……?」

 使徒という存在、サードインパクトの危機、唯一対抗可能な兵器エヴァンゲリオン――。説明が進むにつれてシンジは驚愕し、混乱し、呆然とし……憤りを露わにした。

「そんな……それじゃレイはそいつらと戦うことになってたの!? 一人で!? 何考えてるのさ、父さん!! 何で黙ってたの!? そんなのレイがかわいそうだ、かわいそうだよっ!!」
「司令ばかり責めないで、私達も同罪なの……」

 詰め寄るシンジをリツコ君が辛そうに止める。

「ごめんなさい、黙っていて……。でも勝手な言い分だけど、出来ることならあなたには知られたくなかったの。何も知らずにいてほしかった。それはレイの望みでもあった……」
「レイの?」
「シン君には普通に暮らしていてほしかったのよ、私達みんな……」

 皆、そうだった。来るべき脅威を見据えて生きていればこそ、変わらぬ平穏の中に生きるシンジを大事にした。冷徹な決断を迫られた時でも、シンジの存在が人間的な心を忘れさせないでくれた。ともすれば驕り高ぶり、人類をただの記号として扱いそうになっても、シンジの存在が地に足を繋ぎ止めてくれた。
 シンジこそが護るべき日常の象徴だった。私にとっても、リツコ君にとっても、冬月にとっても、レイにとっても――リリスレイにとっても。
 拳を作った手が緩やかに力を解く。シンジの激情の波が引いていく。

「……ごめんなさい。気遣ってくれたんだよね。多分、僕が水が苦手なせいもあって。リツコさんも父さんもごめんなさい。それと、ありがとう。でも……」

 驚くくらい大人びた笑みを浮かべる。

「知ってよかったよ。何も知らないままレイだけ戦わせていたらと思うと、ぞっとする。どこまで出来るか分からないけど、僕、やるよ。今までレイが頑張ってくれた分、今度は僕が頑張る。だから安心して」

 レイから一時外された荷をそっくりそのまま引き受ける。
 不安がないわけはないのにシンジは覗かせまいとする。

「……やってくれるか?」
「はい」

 力強く頷く姿に胸が痛む。
 同時に誇らしくも嬉しくもある。

「……感謝する」
「私達も全力でサポートするわ。一緒に立ち向かっていきましょう」
「はい」

 話がまとまり、別室で操縦方法等を説明するため移動を始める。リツコ君と並んで前を行く背中を見ながら、私は使徒の出現予定日から今日までの日数を逆算した。……大丈夫、間に合うはずだ。シンジならすぐに初号機とシンクロ出来る。最低限の訓練は施せるはず。間に合うはずだ。
 そんな思考に没入していたせいか、二人の会話を最初は聞き流しかけた。

「それにしても、僕も乗ることが出来たんだね。てっきりレイでなきゃ駄目なんだと思ってた。レイは特別だって聞いてたから」
「あなたも素質があるのよ」
「司令の息子だから? 他に人と違うところなんて思い当たらないし」

 勉強も運動も大したことないしさ、と自分で言って笑う。そんなことないわよ、とリツコ君が笑って否定する。おそらくは内心の動揺を押し殺して。
 あまり触れてほしくない話題。早く変わればいい。好ましくない方向へは進んでくれるな。

「そういえば司令ってことは、まさか父さんが指揮を執るの?」
「最終権限は私にあるが、作戦立案や直接の指揮は別の人間に任せる予定だ」
「よかった……とも限らないかな。それもそれで緊張しそう」

 半ば自分の気を紛らわせるためなのか、あれこれ質問をしては笑う。
 難しいことは考えないでいい。余計なことは悩まないでいい。

「開発とか修理とかの責任者はリツコさんなんだよね?」
「ええ、技術的なことは私の管轄。勿論全部には手が回らないから、部下に任せているものも多いけれど」
「そうだよね……たくさんの人が関わっているんだよね」

 言われたことだけやってくれればいい。その方がお前のためでも……

「たくさんの人が、何年も前からあれを……」

 噛み締めるように呟いて肩越しにシンジが初号機を見遣る。何気ない仕草。しかし様子が急に変わる。瞬きを幾度も繰り返し、そのたびに大きく目が開かれていく。歩みを続けていた足は完全に止まった。訝しく思って私も振り返り、そして気付く。こちらから見えるのは初号機の左側。左から見た初号機――剥き出しの素体、子供――忌まわしい実験の日――
 シンジ、と咄嗟に呼ぼうとして声が出ない。その目は今や極限まで見開かれ、唇は激しくわなないている。異変に気付いたリツコ君がシン君、と呼ばわる。返事はない。震える両腕が己の頭をかき抱き、強張った指先が皮膚に食い込む。膝が床へ崩れ落ちる。細く漏れる、悲鳴とも呻きともつかない音。金属的な響きで鼓膜を刺す。肩を抱いて必死に呼び掛けるリツコ君の声はおそらく耳に届いていない。ここではないどこかを見つめ、そこに心を呑まれている。シン君、シン君――揺さぶりながらリツコ君が泣きそうな声で叫ぶ――シン君、しっかりして、シン君――

「……シンジ」

 立ち尽くしたまま私は動けない。喉がひりひり渇いて痛む。一言だけようやく搾り出せた。
 反応は何も返ってこない。

「シンジ」

 肩が微かに動いた。急いでリツコ君が腕や背中を両手でさする。凍えた体を温めるように。
 荒い呼吸が徐々にではあるが静まっていく。
 歯の根も段々と合い始めているのが分かった。
 少しずつ、腕が下りていった。

「……とう、さん……」

 掠れた小さな声が不思議とはっきり聞こえてくる。

「母さんは……消え、た……? 帰って、こなかった……? あの、エヴァンゲリオン……に乗って……そして……」
「……そうだ」

 今でもまざまざと浮かぶ光景が、胸の内側を冷たく蝕む。

「ユイはこの初号機の中へと消えた。……法的には死亡した」

 沈黙。耳に痛いほどの静寂。リツコ君が痛ましげに下を向く。シンジは膝をついたままだ。

「……どうして……忘れてたんだろう……。どうして忘れて……平気でいられたんだろう……」
「お前は小さかった、無理もない」
「だけど忘れていいことじゃ……」
「忘れることで生きていける場合もある」

 私が言えた義理ではない。だが過去に囚われすぎると未来を狭める――私自身の苦い教訓。
 じっと押し黙って動かずにいて、やがてシンジは体をふらつかせながら立とうとする。慌てて支えるリツコ君の手を、大丈夫と言いたげにそっと押し返し、時間はかかったが何とか自分の足だけで立つ。顔は初号機を向いていた。

「……母さんは、今もあの中にいるの?」
「ああ」
「だから……僕なんだ」
「……その通りだ」

 それこそが理由。
 ――それだけが理由。

「初号機のパイロットはお前が適任――いや、お前でなければ駄目なのだ」

 シンジは無言で初号機を見つめる。険しささえ感じさせる眼光、引き結ばれた口元。受け入れ難い事実であったことは明白。
 説得など意味を持たない。私もリツコ君も、ただ待つしかなかった。
 どれだけ時間が経った頃か。ふっとその表情から険が抜けた。

「……父さん」

 静かな声が私を呼ぶ。

「母さんに……触れてもいい?」





 リツコ君がボートを出してくれた。上がる飛沫にもシンジは少し陰鬱に顔をしかめるだけで忌避はしない。初号機のすぐ傍まで近付くと、ボートの揺れに気を付けながら立ち上がる。手を伸ばし、鎖骨の辺りに触れて僅かに頭を垂れ、目を閉じる。冷たくて硬いだけだろう感触に、それでも何かを感じ取ろうと、あるいは心を寄り添わせようとするかのごとく動かない。
 しばらくして光るものが頬を伝う。照れくさそうに笑って瞼を開けた。

「変だね。母さんのこと、ほとんど覚えてないのに……」

 手の甲で拭い、振り仰ぐ。

「……危険な実験だったの?」
「百パーセント安全の保証された実験では確かになかった。だがこんな結果に終わるとは夢にも思わなかった。誰も予想だに出来なかった……」

 誰も――?
 自分で口にした言葉に自問する。本当に、誰も予想出来ずにいたのか?

 実験の提唱者はユイ自身。危険性も可能性も誰よりも熟知していたはず。
 明るい未来と言っていた。明るい未来を見せておきたい、と。
 ユイの思い描いていた未来はどんなものだったのだろう。人類は、私達は――私とシンジは、どんな形でそこにいたのだろう。自分の子がパイロットとして戦うことをユイはどう思っている? 嘆いているのか? 歓迎しているのか? 仕方のないことと受け止めているだけなのか? どこまでが予測の範疇だった? どこまでが意図通りだった?

 黙り込んでしまった私をシンジが見つめる。
 その母と似てもいるし異なってもいる面差し。

「……正直、分からないのだ、ユイの考えが。一体望みは何だったのか、そもそもどれだけ私はユイを理解していたか……」

 情けない吐露をシンジは真面目な面持ちで聞く。

「ユイはどんな人間だったろう……」
「……僕は覚えてるよ。ううん、思い出した」

 初号機へ、そして私へ視線を転じる。

「母さんは……笑ってた」

 ユイとは違う、シンジの笑顔。

「――僕、乗るよ」



<Back | Next>

 小説一覧へ   HOME





inserted by FC2 system