エヴァに乗るために生まれてきたような子と、誰かが言った。





「第一次接続開始」
「エントリープラグ、注水」

 モニターの向こうのシンジは歯を食いしばって耐えている。やがてそれも限界に達したのか苦しげに口を開いて気泡を吐き出し、代わりに呑み込んだLCLに顔をしかめる。理屈は分かっていても気体を用いない呼吸などそう簡単には受け入れられない。まして液体に身を沈める行為自体に抵抗を覚える者ならば。
 実験の準備が整うまでの間、本部内プールで水に慣れる訓練に一人取り組んでいたシンジ。勿論そんな短時間で克服出来るはずもなかったが、悲鳴は最後まで噛み殺した。
 幾分慣れて、自然な状態に近い呼吸が可能となるまで待ってから次のステージへ移行させる。

「第二次接続開始」
「A10神経接続、異常なし」
「初期コンタクト、全て問題なし」

 報告が次々と読み上げられる。管制室は期待と不安の只中にあった。
 サードチルドレンを被験者とするのはまだ二度目。一度目は七年も前の実験とも呼べない実験。それがいきなり何段階も飛び越えて、実機を用いてのシンクロ。あまりに性急だと懸念する声もあったが強行した。初めて試みさせるシンクロだからこそ、エントリープラグ単体ではなく初号機本体で行いたかった。シンジにとって大きく意味合いが異なるだろうから。

「双方向回線開きます。シンクロ率――55.3%!」

 室内にどよめきが走った。「想像以上だな……」と冬月が舌を巻き、リツコ君が深く嘆息する。この場にいる者で驚いていないのは私とリリスレイだけだろう。シンジ自身は何故驚かれているのか分からず、きょとんとしていた。

「ハーモニクス、全て正常値」
「第三次接続開始」
「セルフ心理グラフ、安定」
「2580までクリア。絶対境界線まであと0.6、0.5、0.4、0.3、0.2、0.1、突破。ボーダーライン、クリア。初号機、起動しました」

 いとも呆気なく越えられた壁にスタッフが戸惑い気味な視線を交錯させる。本当に異常はないか、計測システムは正常に作動中かとあらためて計器に目を走らせている。リツコ君でさえ例外ではない。全てを再点検し、紛れもない事実と認めると、驚嘆を交えながら連動試験への移行を宣言した。

「シンジ君、右手を動かすイメージを頭の中で描いてみて」
『右手……』

 一拍の間を置いて初号機の右肘が曲がり、手が開閉される。至って滑らかな動きで。
 もはや全員、言葉もない。初めて動いたエヴァンゲリオンをただ見つめる。シンジ一人が、どれだけのことを成し遂げたかも知らず、何か変だったろうかと首を傾げていた。





 エヴァに乗るために生まれてきたような子と、誰かが言った。

 あるいは――
 シンジをエヴァに乗せるために、私とユイが生まれてきたのかもしれない。





贖罪 〜彼の歩む道〜

episode 8





「初号機のパイロットに息子を選んだと聞いたよ、碇君」
「子供に与えるオモチャとしては些か高価すぎないかね? 君の息子思いは知っていたが、いやはや恐れ入るよ」

 居並ぶ委員達の視線が私に集まる。
 侮蔑、揶揄、冷笑、警戒。裏に表に覗く様々な感情。

「現時点における最善の手を打ったまでです。使徒が現れてからでは遅いですから」
「私物化するための都合のいい口実にも聞こえるが気のせいかな?」
「まさかとは思うがファーストチルドレンの災禍まで計算の上だったのではあるまいね?」

 あぁ、うるさいっ! 好きで乗せたわけではないっ! シンジ以上の適任者がいるなら出せ、喜んでそいつに代えてやるっ! 言っておくが使徒を送り込んできても無駄だぞ? 初号機も零号機もリリスがベースだからな。不満なら弐号機を寄越せ、弐号機を。それが無理なら口は出さずに金だけ出せ。全く、何もしなかったらしなかったでうるさいくせに、何かしたらしたで文句をつける。部下に嫌われる上司の典型例だな!
 ……と言って暴れたいものだ。

「無論、私欲からではなく計画を滞りなく進めるためですよ。為すべきことは忘れておりません、御安心を」
「そう願おう」

 議長席から飛ぶ威圧的な声。
 バイザーの奥にある目は見えない。私もサングラスに本音を隠す。

「我々の手で人類を抑圧から解放するのだ」
「心得ております」

 上辺だけの恭しさで応じた。







 レイの意識は無事戻り、集中治療室を出て個室へ移った。まだ起き上がることさえ出来ない状態だが、最悪の事態は免れたことでひとまず安堵する。公務の合間を縫ってなるべく毎日顔を出した。
 今日も夕刻に時間が取れて、病室の前まで来てそこで足を止める。笑い声。シンジのものともリツコ君のものとも違う。看護師だろうかと首を捻りながら、入るぞ、と一声掛けてドアを開ける。中にいた人物は自然な仕草で椅子から腰を浮かせかけて、しかし私の姿を見るや弾かれたようにバッと立ち上がり、激しく緊張した面持ちでしゃちほこばったお辞儀をしてくる。髪を二つに結った女子生徒だった。

「あ、あの、お邪魔しています。私、レイさんと同じクラスの洞木ヒカリといいます。今日はお見舞いに参りました」
「……ああ」

 同級生か。確かに関係者以外面会謝絶とは言い渡していなかったからな。

「レイとシンジが世話になっているね」
「いえ、私の方こそいつも助けられてばかりです。あの、保護者の方……ですよね? クラス一同、レイさんの一日も早い退院をお祈りしています。それからこれ、学校で配られたプリントなんですけど……」

 シンジにと、サイドテーブルの上の紙をおずおずと示す。

「ずっと休んでいますが、もしかして何か……」
「いや、少しごたごたしていただけだよ」
「そうですか、安心しました。みんな待っているとどうかお伝えください。では失礼します」

 そんなに急がずとも、と言う前に女子生徒は礼儀正しくも慌ただしく再び頭を下げ、「じゃあね、レイ」とベッドに軽く手を振り、逃げるように病室から出て行った。

「……邪魔をしたらしいな」

 横たわったままレイは否定とも肯定ともつかない微笑を見せる。腹部に力を込めるだけでも辛そうなので無理に喋らないよう言ってある。とすると先程は、洞木という女子生徒がレイを楽しませるべく、面白おかしく何事かを語って聞かせていた最中だったのかもしれない。
 昨日まではなかった千羽鶴が提げられている。花瓶の花も増えていた。シンジが売店で買ってきた、単独でも病室を明るくするほどの大振りの花、その周りで白と桃色と水色の小さな花弁が新たに彩りを添えていた。これも見舞いの品かと問うとやはり首肯が返ってくる。

「お前の友人を初めて見た。お前もシンジも家に連れてきたことはなかったからな」

 仲のいい者がいないわけではないとは知っていた。行事で学校に赴いた際、同級生と楽しげに話している姿を見たこともあったし、遊びに行くと言って休日に出掛けることも珍しくない。その相手が同性なのは逐一確認済みだ。しかしこうして顔を突き合わせて自己紹介を受けたのは初めてなので、正直少々戸惑った。
 レイは曖昧な顔で笑っている。

 ――だってヤクザは怖がられるし。

 小憎たらしい声に憤然と辺りを見回すが誰もいない。……幻聴か。いつもおちょくられているせいで脳が勝手に信号を作り出したのだな。全く、眼鏡からサングラスに替えた時も散々言いたい放題してくれてからに。この時期に眼鏡では落ち着かないのだから仕方なかろう! 大体誰のためにあの時壊したと――
 怪訝そうに見つめられていることに気付き、虫がいたような気がしたのだと、慌てて誤魔化す。納得してレイは小さく頷き、次いで視線を横に動かした。プリント。心配げに曇る表情。言葉はなくとも、言いたがっていることは充分伝わる。シンジの搭乗を告げた時もそうだった。
 大丈夫だと頷いてみせた。





「そっか、委員長が……」

 帰りの車の後部座席で、プリントを手にシンジは俯く。あの女子生徒が学級委員長でもあったことを私もようやく知った。

「レイと随分親しげだったが」
「仲いいよ。いつも一緒にお弁当食べてるし、休み時間もよく話してる。クラスで一番の友達じゃないかな」

 距離感の近さに納得がいったところで話を元に戻す。

「操縦にはもう慣れただろう。明日は学校に行け。ネルフに来るのは放課後からでかまわん」
「うん……」

 終日シンジは訓練のし通しだ。どうせレイも入院中だからと、帰宅の手間も惜しんで本部に泊まり込み、夜遅くまで励んでいる。リツコ君によると熱心すぎるほど熱心で不安を覚えるくらいだという。実際、日を追うごとに余裕をなくしているのが感じられ、このままでは倒れるのも時間の問題と思えたため、強制的に自宅へ連れ帰る運びとなった。
 大丈夫だと言い張っていたシンジだが、やはり自分でも変調は感じていたのか、しゅんとした様子で少しずつ本音を打ち明け始める。

「……何かやってないと不安なんだ。本物の使徒がどんなものか分からないから、どれだけ訓練すれば勝てるのか見当もつかなくて。毎日限界までやった方が安心出来るし、疲れてしまえばぐっすり眠れるし。ごめんね、大口叩いたくせにこんなで……」
「謝る必要はない。無理を強いたのは私だ」
「学校に行っている暇があったら訓練をした方がいいんじゃないの? 僕が負けたら終わりなんでしょう?」
「そうでもない。使徒と奴らの狙うものごと本部を自爆させる手もある」
「自爆って……」
「勿論最終手段だがな。しかし少なくとも、お前が負ければ即人類が滅びるわけではない」

 複雑そうな表情だ。

「要は気負いすぎなくてもいいということだ。私達もいるしユイもいる。逆にお前だけではどうにもならないのがエヴァだ。分かったら学校へ行け。サボりまくった結果として使徒に勝っても胸は張れまい?」
「うん……そうだね」

 考えながら神妙に頷き、ふと何かに気付いたように笑み零れる。

「僕が不良になったら、母さんは乗せてくれないのかな?」

 温かな可笑しさが込み上げて、私の口も自然と弧を描いた。

「……かもしれんな」







 環境を整える。
 その日に向けて、物も人も。



「本日付で作戦局第一課に配属された葛城ミサトです。ミサトでいいわ、よろしくね」
「はい。碇シンジです。こちらこそよろしくお願いします」
「知ってると思うけど、リツコとは大学時代からの付き合いなの。あなたとレイちゃんの話はよく聞いていたから、会えて嬉しいわ。仲良くやっていきましょう」
「はい、えっと……頑張ります」

 にっこりと微笑まれて一丁前にシンジは赤くなっている。まさかこいつ、年上好みではなかろうな。
 落ち着きと明朗さの双方を備えた大人然としている葛城君に、横からリツコ君が補足を入れる。

「軍人としてはまあ有能な人間だから、安心してね。私生活はずぼらでがさつで目の当てようがまるでないけれど」
「ちょっとリツコ……一言二言ばかり多くない?」
「あら失礼。ずぼらでがさつで大雑把だったわね」
「増えてるじゃないのっ!」

 発令所のあちこちで噴き出す声がする。シンジも思わず無遠慮に大口を開けて笑ってしまい、すぐに口元を押さえて横を向いたが肩は小刻みに揺れ続けた。とりあえず葛城君が溶け込むまで時間はかからないことだろう。

「……ところでリツコ、私の割り振られたマンションって新築よね? 前の住人はいないのよね?」
「確かそのはずよ」
「建築中に作業員が亡くなったなんてことは?」
「聞いたことないわね。どうかしたの?」
「ペン……前に話した子がさ、誰かと会話したり遊んでもらったりしているような素振りを見せるのよ、何もないところで。まさか幽霊かと思うと気味が悪くって……」

 葛城君のマンションに出る幽霊――とてもよく心当たりがある気がしたが黙っておいた。







 そして時は満ち――







「ついにこの日が来てしまったな……」
「ああ」

 私の右側には冬月、左側にはリリスレイ。
 前方のスクリーンに映るは悠然と進む巨体。

「間違いなく――使徒だ」

 開幕のベルは再び鳴った。



<Back | Next>

 小説一覧へ   HOME





inserted by FC2 system