果てなく続く蒼穹。ところどころにそびえる雲の峰。合間からは遥か地上が覗く。
 世界中を飛び回っているうちに、この壮大であるはずの眺めも日常の一風景と化してしまい、さほど心も動かなくなった。それでも確かに地下とは違う解放感。
 いつかはまた、旅情を伴うような旅もしてみたいものだが……。



「司令、そろそろ目的地上空です」

 随行員より掛けられた声で、まどろみから覚める。シートから軽く身を起こし、同じ姿勢を取っているうちに凝り固まってしまった筋肉をほぐした。

「おそれながら、司令……」

 随行員が遠慮がちに意見を述べてくる。

「お疲れでしたら、やはり予定を飛ばされては如何かと。連絡は私が入れておきます」
「無用だ」
「しかし今から直接第2新東京へ向かえば、会食まで部屋でお休みになることも――」
「そこまで私が脆弱と思うか?」
「はっ……失礼いたしました」

 ようやく恐縮して口を閉ざす。程なく機体は着陸準備に入った。軽い浮遊感。窓の外でせり上がってくる地面。舞う土埃。静止。
 座席を立ち、開いたハッチから外へ出る。先程まで天空にあった身が、重力に従い、地に足を置く。
 私の到着を受けて人々が集まっていた。近寄り難いのか一定距離を置いて人垣を成し、不安げな眼差しをこちらに注ぐ。その間を掻き分けて出てきた者が二人。息が切れているのは全力で走ってきたためか。紅潮した顔で精一杯声を張り上げる。

「VTOLで学校に来るなぁーっ!!」

 シンジの横でレイがすみません、すみません、と米つきバッタのように教職員に頭を下げまくり、私に続いて降りてきた随行員は「止められなくてごめんよ……」と沈みきった声で二人に詫びた。





贖罪 〜彼の歩む道〜

episode 11





「子供に恥をかかせるなと何度言えば分かる……?」

 翌日、イギリスから帰国したばかりの冬月が、早速我が家を訪ね説教を始めてくれた。誰だ、昨日のことをこいつに報告したのは。

「仕方なかろう。大阪での会議はだらだらと長引いてしまったし、夕方までには第2新東京へ行かなければならなかった。車に乗り換える余裕はなかったのだ」
「お前が学校に出向いて騒ぎを起こさなかった試しはない。だから私かリツコ君が行きたかったというのに、学会への招待やMAGIの調整が重なってしまうとは返す返すも不運だった……」

 書斎の応接セットに向かい合わせに座り、土産として貰ってきたという上等そうなスコッチの封を切る。立ち上る芳醇な香り。日本酒派な私だが、書斎という空間で飲むなら洋酒だ。

「言っておくが男子生徒には受けがよかったぞ? 今の世も軍事物は人気と見える」
「女子生徒と教職員と他の保護者の反応は?」
「思い切り引いていた」

 つまみを持ってきたレイが代わりに答える。咎め立てをしてくる視線から目をそらし、オン・ザ・ロックで一口飲む。うむ、美味い。

「……しかし何だな、肝心の進路相談が二人合わせて十五分かそこらで終わってしまったのはいただけん」

 レイが出て行くのを待って、話の方向に修正を施す。

「担任は、二人とも真面目でいい生徒だと繰り返すばかりで――まぁ、その、客観的に見た成績の程は――飛び抜けて優れてはいないが、さりとて切迫した問題もない、つまりコメントのしにくい成績だということは一応承知しているが――取り上げようはあるはずだろう? 進路にしても二人とも判で押したように『自分の学力と相談して高校を決めたい』だ。張り合いに欠ける」
「堅実で浮ついたところがないのがあの子達の美点――とも評価出来るだろう?」

 合いの手を入れながら冬月は、夕食の残り物であるナスと豚肉の味噌炒めを頬張る。立場上、高級料理を食べる機会も多い我々だが、生まれも庶民なら育ちも庶民。こういう味の方がやはり落ち着く。一人暮らしの冬月は我が家に来るたび、存分に家庭料理を堪能していく。

「それに我々にも責任がある。使徒と戦っている最中では、将来像もなかなか思い描けまい」
「……かもしれん。だが夢があればこそ生きる力も湧く。違うか?」
「ふむ。お前にしては真っ当な意見だ」
「二人ともまだ中学生。小さな器に閉じ篭らず、大胆な未来を夢見てほしい。専門の教育を受けて宇宙飛行士になりたいとか、服飾を勉強してトップデザイナーになりたいとか、あるいは結婚とか結婚とか結婚とか」
「中学生に何を言わせる気だ」

 ここにリリスレイもいたら冷ややかに嘴を挟んできただろうが、気に入りの番組のない日の常で、まだ帰ってきてはいなかった。子供達も半分客で半分家族な冬月に妙な気兼ねなどせず、それぞれの部屋で過ごしている。我々も明日は重要な予定が入っていない。子供達の昔の写真を眺めたりしつつ、久しぶりにのんびり酒を楽しんだ。いや、正確にはそのつもりだった。
 夜が更けるにつれて公的立場での遣り取りが増え始める。顔を突き合わせていながら仕事のことを完全に忘れるのは、やはり不可能のようだ。明日の出勤後でもかまわないような話題が互いの口をついて出る。本部施設の改修やドイツからの荷物の状況、そして、

「……槍の輸送計画がようやくまとまりそうだ」

 私が告げた途端、冬月の表情が一層の真剣さを帯びて引き締まる。

「二、三ヶ月のうちには南極行だ。お前も行くだろう?」
「無論だ。だが我々が揃って日本を離れることになるな」
「第三の責任者を定める」
「現行の体制だと……彼女だな」

 微妙に口調が変化した。視線が交わり、そのまま何もなかったように互いに外す。

「今後の働き次第ではあるが、階級に色をつければ特に問題はないはずだが?」
「能力や識見を不安視してはいないさ」

 ただ――とソファーに深く背を預け、天井へと泳がせた冬月の眼差しはどこか遠い。

「誰よりあの地に行きたいのは、彼女かもしれんと思ってな。いや、二度と足を踏み入れたくないのか……」
「そんなもの、本人にしか分からんよ」
「そうだな……」

 思考の中に沈むように言葉が切られ、私もぎこちなく黙り込む。酒で喉を湿らせると、グラスの中で氷が澄んだ音を立てた。琥珀色の液体に色違いの景色が重なる。氷塊と深い蒼の海。あの頃は大陸がまだ存在していた。
 口に出した単語と出さなかった単語が連なっていく。


 南極。槍。


 葛城。


「……戯言と思って聞け」

 右に左に、ゆっくりとグラスを傾け、滑るように氷を動かす。

「セカンドインパクトを阻止出来たろうかと考えてみたことがある。二〇〇〇年の九月より以前に戻って……」
「思い切った仮定だな」
「だから戯言だと言っている」

 学生が打ち出した突飛な説に、それでも寛容に耳を傾ける風情で、ゆったりと冬月は構える。私にとって時空の超越は既に現実の話であるとは、夢にも思わないだろう。
 リリスレイを責めるつもりはないが、もし私が二〇〇四年より以前のこの世界に来ていたなら、物事をもっと上手く運べたのではないか――そう考えてみたことがあったのだ。しかし……

「葛城調査隊の行動が世界的危機を招くことを各国に訴え、協力を仰ぎ、首謀者たる老人達を拘束する。ロンギヌスの槍は深海にでも投棄する。アダムは従来通り、氷の底で眠っていてもらう」
「……それで?」

 眉一つ動かさず先を促してくる冬月に、芝居がかった仕草で肩を竦めてみせる。

「続きなどない。こんな計画が成功するはずもないからな。セカンドインパクトが発生していない段階で、どれだけの人間が私の訴えに耳を貸す? ゼーレを相手取る覚悟を決める? こちらが一方的に潰されて終わりだ」

 今現在、私がある程度ゼーレと渡り合うことも可能となっているのは、使徒への対抗組織を統べ、人類補完計画の推進役を担っているからだ。年代を遡れば遡るほど保有権力は低下する。二〇〇〇年時点では到底、敵対勢力になどなり得ない。

「葛城博士一人ならどうにでも出来るだろうが、彼を排除したところで別の研究者が登用されるだけ。大勢に影響は与えられん」

 補完計画もそうだった。私が唱えずとも別の者が提唱した。
 神の事物が発見された段階で、既に一定の路線は自動的に敷かれてしまっているのだ。

「別の研究者か……」

 冬月が皮肉げに口の端を持ち上げる。

「私も候補に挙がったのかな」
「ユイも含めて、あるいはな」

 下手な冗談に冗談で応じてみたが、実際あまり笑えない。ユイが私の理解者であったことは確かだが、彼女には彼女の信念や思惑が存在したはずで、セカンドインパクト阻止を叫べば賛同してくれたのか、初号機との接触実験の結果を伝えれば思い留まってくれたのか、私にはどちらとも言えない。
 憂鬱な気分を押しやるように、「もうこの話は終わりだ」と一方的に宣言した。考え始めればきりがなく、しかも実を結びもしない。だからこの種の仮定はやめにしたはずだったのに、何故冬月を相手に語ってしまったのか。
 そうした心持ちが表に出たのか、からかい交じりの声が飛んでくる。

「随分と饒舌だったな」
「……酒のせいだろう」
「セカンドインパクトに関わったことを後悔しているのか?」
「まさか」

 倣然と言い捨てて酒の瓶へと伸ばした手が、続く言葉により中途で止まる。

「私は後ろめたく思っているよ。真相を公表しなかったことで」

 思わず顔を上げると、悄然と笑み返された。生じた皺が深い陰影を刻む。

「殺されてもいいから行動を起こす――そんなつもりでいたはずなのに、結果はどうだ? 今ものうのうと生きている。許さないと決めた人間達の中でな……」

 当てこすりには聞こえなかった。含まれた毒は己で呑み下すためのものだった。
 伏せられた目に精彩は乏しく、急に老いを意識させられる。胸に何かがつかえるような感覚に襲われた。思えば、この男と初めて会ったのはセカンドインパクトより前だった。今はもう失われた季節。遠く過ぎ去った時間。長い歳月の間に、私達はどれだけのものを手に入れ、何を置き忘れてきたのだろう。
 手振りで酒を勧めたが冬月は断った。自分のグラスにだけ注ぐ。溶けて小さくなった氷が波を受けて不安定に揺れた。その様はどこか心許なく、駆り立てられるように更なる塊を一つ、二つと追加した。水面は氷で覆われ、啜ると案の定薄く、まずい。グラスを持った指先と、液体の流れ落ちた道とがただ凍えた。
 私が児戯めいた真似をしている間に、冬月は書棚に立ってアルバムを一冊持ってきた。広げられたページには、まだ幼いシンジとレイの満面の笑み。背景に写っているのは金閣。小学二年時の京都旅行でのものだ。
 親交のあった教授の退官慰労会に招かれた冬月が、せっかくだからと日程を長めに組み、春休み中の子供達も連れて行ったのだった。市外に出ることさえ少ない二人は大喜びで、お菓子だトランプだとリュックを一杯にして出掛け、行きの車中では駅弁一つ食べるだけではしゃぎまくったという。観光客用の着物を着て時代劇ごっこに興じていたり、口を半開きにして舞妓に見とれていたり……どの写真にも実に楽しそうな姿があった。

「……この子達には、学者にはなってほしくないな」

 目を細めて眺めながらも、冬月の呟きはしんみりとして重い。

「未知の領域に触れたが最後、視野は狭まり、世に何をもたらすかも考えずに突き進んでしまう。研究のための研究に夢中になって、それまで大事にしていたものも、良識さえも放り出す。終わってから愕然としても遅いのにな……」

 京都では、ユイの名を出される事態を案じ、慰労会場から離れた場所に宿を取ったという。しかし、かつて在籍した大学だけは冬月も二人に見せた。
 ――大きくなったらぼくも入学する!
 ――わたしも!
 夢とも呼べないほどの幼い憧憬は、もう忘れられてしまったのか。現実を前にして押し込められたのか。
 望めば全て叶うのだと錯覚出来る時間は、いつも残酷なまでに早く通り過ぎる。

「勿論分野は様々だし、全員がそうだとまでは言わんが……それでも業の深い人種だよ」
「学者でそこまで罵られるなら、私はさしずめ地獄の餓鬼か?」
「お前の生き方の方が人間的だと時々思うよ。称賛まではしないがな」
「……冬月」
「酒のせいだ」

 先回りをするように嘯き、また一枚ページを捲る。
 これまで出会ってきた幾人もの研究の徒を思い起こす。追想に耽る私の耳に届く、小さな独白。

「学者なんてなるものではない……」










 かつて葛城博士のことを、理想ばかり追って現実に捨てられる類いの人間と冷笑した。今は笑えない。
 残された娘が部下となり、私の子供がその部下となったのは、一体どんな因果だろう。

 彼も娘の不幸を望んではいなかったはず。しかし結果として、セカンドインパクトに間近で遭遇させた。

 大切な存在も、時に容易に見失う。
 最善を尽くしたつもりの行動も、時に最悪を引き寄せる。

 私は私の子供達に、どんな未来を残すのか……。










「エヴァの回収は無事終了しました。汚染の心配はありません。葛城一尉の行動以外は全てシナリオ通りです」

 旧東京市より帰還したリツコ君と、実働を担当した保安部員からの報告に、御苦労、と簡潔に応える。実演会場での暴走により、ジェットアローンなる兵器の建造は白紙に戻るとみて間違いなく、ネルフの勢力削減を図っていた政府は今頃、苦々しい面持ちで責任の押し付け合いをしているだろう。――我が身に降り掛かる火の粉を払ったまでとはいえ、また一つ、自分の子供に言えないことが増えた。
 意識を報告内容に戻し、一点気になった部分を尋ねた。

「葛城一尉が初号機ではなく零号機を手配させたことに、特別な意図はあったのだろうか」

 ヤシマ作戦で初号機が受けた損傷は軽微なもので、とうに換装作業は終了している。エヴァ両機、パイロット両名、共に万全という状況下で、零号機の方が選択されたのは何故なのか。リツコ君は少し考え、あくまで推量だと前置きした上で述べる。

「ファーストチルドレンの練度の高さへの信頼感や――これこそ個人的見解でしかありませんが――同性ゆえの心理的距離の近さが作用したのではないでしょうか」
「なるほど……」

 そんな理由もありそうだと、素直に頷く。心理的距離、か。葛城君がシンジを引き取り、一緒に暮らした世界もあると知れば、リツコ君も葛城君本人もさぞ仰天するに違いない。関係性が大きく異なっていることを実感する。
 用件が済み、退室しようとするところをリツコ君だけ引き止めた。何事かと構える彼女に、軽く居住まいを正して問う。

「……リツコ君、お祖母さまは御健勝か?」
「は? ええ、おかげさまで……」

 赤木博士、と呼び掛けなかったことで私的な内容とは察しても、ここまで私的とは思わなかったのだろう。一瞬、彼女にしては間の抜けた声が飛び出した。

「私が言えた義理でもないが、大事にしたまえ。君のことを案じているだろうからな」
「はい……お心遣い、痛み入ります」

 不思議そうに首を捻りながらリツコ君は辞去する。それを見送ってから姿勢を崩し、溜息をついた。言っておきたくなったことではあるが、やはり慣れない言葉を使うものではない。短い遣り取りにも関わらず、妙に気疲れした。
 それにしても、と思う。
 見渡せば、世代を超えた因縁が何と多く散らばっていることか。シンジにレイ、赤木、葛城、そして今度は惣流・キョウコ・ツェッペリンの娘も加わる。まるで撒かれた種が、二〇一五年に合わせて一斉に芽を出したかのようだった。
 死者も生者もエヴァからは離れられない。
 今はまだ。

 席を離れ窓辺に立つ。小さな引っ掛かりを覚えていた。リツコ君を呼び戻して煩わせるほどの問題ではないが、さりとて頭から離れてもいかず、考えてはみても正答は浮かび上がってこない。
 惣流・キョウコ・ツェッペリンの娘。
 セカンドチルドレン。





 ……ええと、確か赤くて、名前は……ええと、名前は……。



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