よくある問い掛けだ。
 崖にぶら下がっている二人の人間のうち片方しか助けられないとしたら、どちらを助けるか。

       「考えるまでもないことだわ」

 助けるべき相手と理由が淡々とした口調で告げられる。
 聞きたいとも思わなかったし、言いたいともおそらく思っていなかっただろうが。





贖罪 〜彼の歩む道〜

episode 15





 第十三使徒戦より今日で三日が経過したが、傷痕は未だ深く残っていた。
 先の出来事を思えば無理もないが、シンジはまるで物が食べられないでいる。食べ物を見たり匂いを嗅いだりするだけで吐き気を催すという有り様だ。心配し、せめて野菜ジュースでもと言ってみたら、見る見る顔から血の気が引いていった。そういえば野菜ジュースは大抵オレンジ色である……。
 とにかくこのままでは体に障るし、私はともかくレイも生活する上で支障を来してしまうので、本人の希望もあり一時的に病院に入れることになった。点滴や精神療法を受けつつ、無理のない範囲で学校へ通っている。体育は見学、昼休みは保健室へ逃げ込むという形で何とか過ごしているらしい。
 全治一ヶ月と診断されたリツコ君も同じく入院中だ。折々にシンジが顔を出し、暇潰しの相手を務めている。葛城君は包帯姿ながらも今日から仕事に復帰していた。
 エヴァの稼動状況はというと芳しくない。弐号機は左腕を根元から欠き、零号機も右腕を損傷。修理用の部品を取り寄せようにも、4号機、3号機を相次いで失った影響もあって各支部とも余裕がない。唯一無事な初号機は、専属パイロットのシンジがあの状態だ。とても乗れそうにないし、乗ったとしてもシンクロ率が期待出来ない。一度ダミープラグによる起動実験には成功しているが、有人機の減少は戦術の幅を狭めてしまう。
 だからレイのこの申し出はありがたいことのはずだった。

「私が初号機に乗ります」

 予期はしていたのに、それでも咄嗟に応じられなかった私に代わり、横からセカンドチルドレンが口を挟んだ。

「いいの? 洗ったとはいえシンジがアレしたところよ?」

 しばし生じる、間。

「……いい、乗る」
「まぁ、やるって決めたんなら止めないけど」
「ではレイ、頼む……」

 ダミー搭載機が一機にパイロット搭乗機が二機という態勢は現行通り。冬月をはじめとした職員達は、修理を急がねばと気をはやらせてはいても特段不安を抱えた様子はなかった。確かに客観的に見れば、悲観し、絶望するほどの材料はまだないのだ。
 次に控えている使徒の強ささえ除けば――。





 黙然と佇む初号機。見つめたところで何も応えはしない。そうと分かっていても見つめてしまうのは、未練か、困った時の神頼みのようなものか。
 ケイジであまり油を売ってもいられず、自分に強いて踵を返し、出口へ向かう。一緒に来ていたリリスレイも私について歩いてくる。行き会う職員達が私に頭を下げて脇によけるが、時折リリスレイをすり抜けてしまう。いつものことながら奇妙な光景。

       「……この間の戦闘を見る限り、ダミー零号機では力不足でしょうね」

 十四番目の使徒への対抗策は以前より二人で協議してきた。しかし効果的な作戦は今に至ってもなお立てられないでいる。零号機を特攻させてもあの使徒相手では自爆損になりかねないし、母親の魂が一部しか込められていない弐号機では、おそらく初号機と同等の暴走は望めない。

       「前提を思えば、暴走や覚醒に期待したくはないのだけど……」

 心情としてはそうだが難しい注文だ。弊害も覚悟でロンギヌスの槍を使うべきか。しかし地上戦での使用は私にとっても未経験。強大無比な神器であるがゆえに、躊躇いを覚えないわけにはいかない。
 手立てを講じながら歩いていたため、通路の前方に立つ人影に気付くのが少し遅れた。私を待っていたらしく、近付いてくるシンジ。

「父さんはこっちだって聞いたから」
「どうした?」

 ここ三日、ネルフに来ることさえなかったというのに。時刻ももう夕方というより夜。緊急事態というほど慌てた様子は見受けられないが果たして何事かと訝しむ私に、ひょいと紙の束を差し出してきた。

「リツコさんからの、エヴァの修理計画に関する提案書」
「……彼女は怪我人のはずだが?」
「僕も止めたんだけど聞かなくて、結局口述筆記を引き受けることになったんだ……。とにかく出来上がった以上は早く読んでもらった方がいいかと思ってさ」

 目視しただけでざっと五枚はあった。

「……確かに受け取った。今度こそ療養に専念するよう強く言っておいてくれ」
「そうする」

 苦笑いを浮かべるその顔はやはり血色が良くない。栄養自体は点滴で補えても、それだけでは埋められない部分があるのだ。くしくもシンジ自身がいつも朝食の重要性を説いていた。
 私の注視から顔を隠すように横へ向ける。このまま病院へ戻るというのでエレベーターホールまで並んで歩く道すがら、リツコさんから聞いたんだけど、と前置きして話し始めた。

「起動実験で何か起きないか、心配してたんだってね」
「――4号機の事故の直後だったからな」
「当たっちゃったね……」
「喜べることではないがな」

 シンジの口調はしんみりと重かったが、私が事前に知っていたのではないかと疑いを掛けている様子はなかった。リツコ君にしてもさすがに私が使徒を用意したとまでは考えないだろう。悪意からではないにせよ、二人に偽りを述べていることは事実であり、後ろめたさを感じてしまう。
 ボタンを押し、エレベーターを待つ。「……ごめん」と不意に力なく謝られた。

「こんな状況なのに僕だけ……。早く何とかしたいんだけど……」

 ケイジに足を踏み入れず通路の途中で待っていたのは、やはり抵抗感が根強く残っているためか。

「時間さえかければ治ると医師も言っていた。無理に焦るな」

 初号機にはレイが乗るのだし、と続けかけてやめた。
 到着したエレベーターには私が先に乗り込み、ボタンの列の前に立つ。シンジは扉をくぐってすぐに前を向いてしまったため、続いて乗ってきたリリスレイはよけきれなかった。……ぶつかることなくすり抜ける体。シンジは何も気付かない。リリスレイは箱の奥へ進み、私の対角線上に影のようにひっそりと身を置いた。
 上昇する空間の中で、私と二人きりだと思っている気安さからか、シンジが肩の力を僅かに抜く。

「……あれが3号機だったから……」

 言いにくそうに一旦言葉を切り、ややあってからまた続きを口にする。

「……やられたらあんなふうになるのかなって……そんなことも考えてしまって……」

 天を仰ぐ代わりに階数表示を見上げる。シンジの降りる階に間もなく到達する。
 軽い衝撃とともにエレベーターが止まり、扉が開く。降りたシンジが快活さとは程遠い笑顔で振り返る。

「じゃあ、なるべく早く何とかするから……」
「いいから無理をするな。休めるだけ休め」

 返事代わりに手を振って病院へと帰っていく。後ろ姿がだいぶ遠ざかってから扉を閉じた。再びエレベーターが動き出す。
 リリスレイは変わらず隅に佇んだままだった。翳りを帯びた表情で、視点を床に据えている。

       「……あまり観察しないでほしいわね」

 平板な声での抗議に、前へ顔を戻す。網膜に映ったリリスレイの姿が、頭の中でレイに変わった。
 休めるだけシンジが休んだら――その分レイが乗ることになる。先程の発言を取り消すつもりはなかったが、あの瞬間、レイの負担をまるで顧みていなかったことは確かだ。ここ二戦は休んでいたから今度は働いてもらう、そんなふうに考えられる問題ではない。そもそもセカンドチルドレンはどうなるという話にもなってしまう。だがレイ自身はおそらく二人への負い目もあって搭乗を志願したに違いなかった。
 シンジとレイ、両方を等しく護ることが出来ない現状。次に待つのはこれまでにないほどの激戦だというのに。

       「……どちらか片方の手を取れば、選ばれなかった方は落下する」

 呟かれた言葉の唐突さに、先程の抗議も忘れて肩越しに視線を投げ掛ける。

       「よくあるでしょう?
        崖にぶら下がっている二人の人間のうち片方しか助けられないとしたら、
        どちらを助けるか――」

「……あぁ、あるな」

 言わんとしていることを理解すると同時に、半ば顔を背けるようにして前を向く。

       「考えるまでもないことだわ」

 あまり聞きたくはない、そしておそらく言いたいとも思っていないだろう内容が、淡々とした口調で続けられる。

       「助けるべきは碇君よ。だって“私”には――がいるもの」

 ちょうどエレベーターが到着し、音に声が一部紛れた。互いにとって幸いだったかもしれない。
 降りて人気のない通路を公務室へと歩く。振り返りはしなかったが、白い手足と制服が視界の端に映り込んでいた。同じ歩調でついてきていても、足音は耳に入ってこない。影も床に落ちはしない。

「……お前以外が口にしたら、銃を突き付けたくなるな」

       「私も、他人の口からは聞きたくないわ」

 一つ、リリスレイが言及しなかったことがある。自身とレイが別個の存在だということだ。
 失念していたはずはない。レイを称して『私』と言うこともたまにあっても、基本的にはいつも『あの子』と呼んでいるのだから。

 夜が更けてリリスレイが去った後で、プラグの中で潰されたダミーのことを考えた。
 苦痛に歪む表情の片隅には、最期まで笑みが貼り付いていた。







 遅ければ遅いほどいい――そんな願いも虚しく第十四使徒は襲来した。
 零号機も弐号機も、まだ修理は終わっていなかった。

「パルス消失! 駄目です、エヴァ弐号機、起動しません!」

 思わず歯噛みをする。ダミープラグを弐号機は受け付けようとしなかった。第十二使徒戦で半端に目覚めたことが裏目に出てしまったかもしれない。

『じゃあいつも通り、私が乗ります!』

 ケイジの管制室で待機していたセカンドチルドレンが勇んで名乗りを上げる。戦闘訓練のさなかの使徒襲来だったため、彼女とレイの準備がすぐに整ったことだけは幸いだった。

「でもアスカ、弐号機はまだ左腕が……」
『援護くらい出来るわよ。零号機だって似たようなもんでしょうが』

 葛城君はぐうの音も出ない。

『かまいません、ママと一緒に戦います!』
『そこは私と一緒にと言ってほしいわね』
『あれ、聞こえてた?』

 軽口を挟んできたのは初号機の中のレイだった。こちらは既に起動し、ジオフロントへの配置が完了している。ダミープラグも予備として搭載済みだ。
 女子中学生二人が軽妙な掛け合いを演じる間も、使徒の侵攻は続く。

「……弐号機はセカンドチルドレンで再起動」

 地上の地対空兵器は足止めの役にも立っていない。あと数分のうちにジオフロントに侵入されるだろう。危機的事態と理解出来ているからこそ、レイもセカンドチルドレンも虚勢を張っているのだ。
 病院にはリツコ君を縛り付けてでもおとなしくさせておけと厳命してある。シンジには招集自体掛けなかった。現状ではレイにもダミーにも劣る働きしか出来ない――それが所詮言い訳の域を出ないことは承知していた。

「あと一撃で全ての装甲が突破されます!」

 ATフィールド中和地点に配置してある零号機のダミーシステムを開放する。そこから少し離れた位置で初号機がライフルを構える。その周囲には武器庫ビル代わりに、遠距離用、近接用問わず、ありったけの装備が並べられていた。
 轟音とともにジオフロントの天井に穴が開く。髑髏めいた顔がまず覗いた。ゆっくりと降下してくる目標に向けて射撃が始まる。

「奴の光線は強力よ! 回避に充分気を配って!」

       「光線だけじゃない……」

 私の左横で戦況を見守るリリスレイがぽつりと呟く。葛城君が注意を促してくれたこと自体はありがたい。問題は気を付けたところで回避が可能かどうかだ。
 戦線に合流した弐号機が無事な右手でパレットライフルを掴み、猛射する。初号機は撃ち尽くしたライフルを捨て、バズーカを発射した。地面に迫った目標に対し、捻じ曲がったままの右腕をも振りかざして零号機が殴り掛かる。味方の射撃はその背にも当たっているが、零号機を巻き込んででも使徒を攻撃せよというのがあらかじめ私の出した指示だ。多少の被害は顧みていられない。
 それでも目標には未だ傷一つ付けられないでいる。

「零号機の自爆装置をいつでも起動出来るようにしろ」
「はい」

 相打ちもやむなしとの心境に誰もが至ったらしく、異議を唱える声は上がらなかった。しかし――
 地面に降り立った目標が光線を放ち、零号機頭部の上半分を粉砕する。たたらを踏んで後退し、闇雲に手足を暴れさせる零号機。

『――接近戦を仕掛けます。アスカ、援護お願い』
『頼まれてやるわよ!』

 このままでは勝機が薄いと判断したか、ソニックグレイブを手にいちかばちか初号機が駆ける。悪態交じりに弐号機が張った弾幕と零号機の陰に隠れての突進。だがその向こうから目標が、折り畳んでいた両腕を一瞬で伸ばしてくる。
 血しぶきが舞い、零号機の腕が左右非対称の長さに斬り落とされた。辛うじて回避行動に移れた初号機も、左の肩先が削ぎ取られる。悲鳴を噛み殺してなおも駆け、地面に倒れた零号機を跳び越えソニックグレイブを振るうが、ATフィールドによって阻まれた。

『ATフィールド全開!!』

 宙で止められた腕が少しずつ目標の側へ動き始める。中和を助けるべく弐号機も急いで向かう。二機が力を合わせてようやくソニックグレイブを突き抜けさせ、今度こそ振り下ろした。けれども肝心のコアは防御幕に覆われてしまい、刃先はその表面を浅く傷付けるに留まる。二撃目を繰り出そうとする初号機に、逆に目標の腕が襲い掛かる。

「レイっ!!」

 私とセカンドチルドレンの声が重なった。貫かれた顔面がおびただしい量の鮮血を降らせ、左腕が落下し、次いで初号機本体も倒れていく。人間でいえば鼻から右耳にかけての部分に線状の穴が開いていた。
 最後に残った相手を目標がひたりと見据える。怒りによってか恐怖によってか、セカンドチルドレンが絶叫を迸らせながらプログナイフを構えて突っ込んでいく。だがそれはあまりに無謀にすぎた。

「全神経接続カット!! 急いで!!」

 葛城君の指示は果たして間に合ったのか。弐号機の首が胴体を離れ、飛んだ。
 悠然と、こちらをせせら笑うかのように、目標は木偶と化した機体の横を通り過ぎる。動くものは他にいない。頭の半分と両腕を失いながらも、しばらくは立ち上がろうともがいていた零号機も、今はその力さえ使い果たしてだらりと両脚を投げ出している。

「初号機の回路をダミープラグへと切り替えろ」

 レイの救出を確認後、最後の望みを託してみたが、

「駄目です! 起動しません!」

 活動を停止した機体は両眼に再び光を灯してはくれなかった。
 身を翻そうとするリリスレイを見咎める。
 ――どこへ行く?

       「零号機で……」

 やめろと言ったはずだ。レイや世界そのものが脅かされては意味がない。

       「でも……」

 反論は長くは続かず、唇を噛んでうなだれる。無事で済むかもしれないが、そうはいかないかもしれない。危険すぎる賭け。踏み切らせるわけにはやはりいかない。
 発令所が大きく震動した。目標が本部に攻撃を加えたのだ。これでメインシャフトが剥き出しになった。最深部への侵攻を許すのももはや時間の問題。
 残された手は一つ。

       「……使徒は倒せないかもしれないわね」

 悲嘆と疲労が口調に滲む。論じ合ったことはなかったが、避け得ないかもしれないとは認識していた最終手段。
 使徒は殲滅出来なくともサードインパクトの危機は遠ざけられる。我々はここまでだったとしてもリツコ君がいる。子供達を支えつつ以後の指揮を執ってくれるだろう。
 本部自爆プログラムの用意――そう命じかけた時だった。スクリーン内を動く影が目に飛び込んできたのは。

「シンジ……?」

 使徒と比べれば小さな点にすぎない姿。しかし見間違えるはずもなかった。
 本部とは別の方向へと走っている。その先にあるものは――

「まさか、初号機に乗る気か……?」

 冬月が呻きにも似た声を上げる。大破して地面に転がっている初号機。普通に考えて動くはずもなく、乗って戦おうなど正気の沙汰ではない。
 それでも――そうと分かっていてなお走るのなら――

 手元の回線を操作し、連絡を入れる。

「回収班、シンジを初号機に乗せろ。そうだ、乗せるのだ」
「碇――」

 通常と真逆の作業命令。冬月が何か言いかけて、私の表情を見て言葉を喉に押し込める。
 使徒は本部施設のすぐ前にまで接近していた。零号機も弐号機も初号機も、まるで動く気配を見せない。

 理論上あり得ないといっていい。それこそ奇跡に等しい確率だ。
 しかし発令所内の全員が、私やリリスレイも含めた全員が、固唾を呑んでスクリーンの中を見つめていた。希望や期待というよりも一種の確信に近い思いがあった。最初の起動実験が、第三使徒戦での出来事が、我々にそう思わせる。

 レイでもダミーでも、もう初号機は動かせない。
 だが、

 ――シンジなら。







 雄叫びが周囲を圧して轟く。
 両眼に光は再び灯った。







 勝利と敗北。
 昨日の戦闘はそのどちらに終わったかと問われれば、前者だったと答えることになるだろう。
 第十四使徒は自身の開けた穴より差し込む陽光に、無残な屍を晒している。食い散らかされた死骸としか表現しようのない姿。
 しかし勝者に当たる我々も、出した被害は甚大だった。地上の設備にジオフロント、本部施設、零号機、弐号機……挙げていくときりがない。復旧には費用も時間も必要だった。

 初号機に限れば損傷は軽微。左腕は自ら再生させて、S2機関まで取り込んだ。
 代償となったのは人間。

 エントリープラグの中にシンジは溶けて、己の形を失った。



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