少女はマッチを擦り、亡き祖母の幻を見る。





「この展開は予想外ですな」

 外では使徒の残骸の撤去作業が進む。窓からその様子を眺めていた男が、苦笑交じりに顔をこちらへ向けた。

「委員会、いえ、ゼーレの方にはどう言い訳をなさるおつもりですか?」

 今目の前にいる者は部下ではなく、ゼーレが寄越した代理人だった。
 そうと知っておきながら我々も、この加持リョウジという男を泳がせていたのだが。





連れて行ってほしいと願い、全てのマッチに火をつける。





「初号機は我々の制御下ではなかった」

 抑えた声音で冬月が述べる。歪んだ口元は、制御下にあったなら決してこんな事態には陥らせなかったと言いたげだった。覚醒に対する感慨は窺えない。

「事故だよ、不慮の……」

 弁明を受ける側は儀礼的に同情の色を浮かべる。





翌朝少女は冷たくなっていたが





「よって初号機は凍結。委員会の別命あるまでは、だ」
「適切な処理です」

 私が出した結論を評価した上で、しかし、と続ける。





その顔は





「御子息を取り込まれたままですが――?」
「君の関与することではない」
「……失礼しました」





とても幸せそうだったという。







贖罪 〜彼の歩む道〜

episode 16







 サルベージ計画は伊吹二尉が中心となって進めている。エヴァの修理との並行作業は若い彼女にとって荷が勝つだろうが、リツコ君が不在の今、他に務められる人材もいない。ユイのサルベージに携わった私と冬月も助力を惜しむつもりはなかったが、如何せん割ける時間は限られていた。
 リリスレイとは話し合うことで光明が見えそうなものも今はなく、口数が互いに自然と減り、やがて顔を合わせる回数自体も減った。
 レイにはシンジの状態を直接伝えた。他人の口は通さず、回復を待ってケイジに呼び、私から直接説明した。物も言えず呆然と立ち尽くしたレイ。案じたのかセカンドチルドレンが、しばらくうちに泊まれと誘いを掛けた。葛城君も賛成し、レイ自身も頷き、無論私にも異存はなく、落ち着くまで預かってもらうことになった。
 チルドレン同士が同年代の仲間でもあることを今更のように実感し、そして初めて感謝した。





「エヴァシリーズの量産が予定より早く進められているようだ」

 予算会議を終えて公務室へ戻ってきた私に、冬月が面白くもなさそうな顔で告げてくる。

「先程の会議ではそんな話は出なかったがな。金があるなら、もっとこちらに回してくれればいいものを」
「ゼーレが特別に資金を流しているとの噂もある。いよいよ本格的に見限られたかな」

 他人事のような口調。もっとも私も同様だろう。危機感を覚えてもいい情報のはずなのに、まるで心に入ってこない。頭の片隅に留めておくことさえ億劫に思えた。
 窓の外を見るとようやく使徒が撤去されていた。地上に開けられた穴も応急処置ながら塞がれている。私の視線の先を追ったか、兵装の補充まではなかなか手が回らないと零して、冬月は公務室を出て行った。私もサルベージ準備が進められている研究室へ向かう。本部のそちこちに慌ただしい空気が漂うが、発令所などの中枢部分が無事だったことはせめてもの幸いだった。
 研究室の自動扉を開けた途端、「司令――」と助けを求めるような声が飛んできた。おろおろと立ち尽くしている伊吹二尉に、何があったかは聞かなかった。聞くまでもなく事情は把握出来たからだ。
 彼女の代わりに椅子を占める人物がいた。

「……赤木博士。ここで何をしている?」
「計画の概要をまとめる手助けです」

 振り返りもせず、一心にリツコ君はキーボードを打ち続ける。患者服の上から白衣を羽織った格好だった。荒い呼吸が交じり、声が聞き取りにくい。

「病室に戻りたまえ」
「大丈夫です。痛みは引きました」
「そんな報告は受けていない。戻りたまえ」
「寝ていられません!」

 強い語気で言い放った直後、苦しげに身をよじって喘ぐ。慌てて伊吹二尉が手を伸ばした。
 病院と連絡を取る。やはり勝手に抜け出したらしい。すぐに向かいますという医師の言葉の途中で通話を切り、あらためてリツコ君を見下ろす。

「いずれ君には嫌でも働いてもらうことになる。――戻りたまえ」

 唇を噛んで、しかし三度目の通告でようやく彼女は首を縦に動かした。伊吹二尉にいくつかの助言を残し、到着した医師と看護師に連れられて去っていく。
 すれ違いざま、切とした声で託された。
 ――お願いします。





 ずっと本部内での寝泊まりが続いていたが、着替えを仕入れに久しぶりにマンションへ戻る。既に時刻は深夜だが配慮すべきことは何もない。ただいま、と呟いたことにも習慣以外の意味はなかった。
 衣類を放り込んで洗濯機を回す。自分で洗濯をするのはいつ以来だろう、そんなことをぼんやりと考えながらシャワーを浴びた。ボディソープの容器を押す手ごたえが、残り僅かということを告げてくる。詰め替え用は果たして買ってあるのかどうか。少なくとも先程脱衣所を見た限りはなかったと思う。
 風呂場から出てパジャマに袖を通すと、半ば条件反射的にビールが飲みたくなった。明日も――もう今日か――朝から仕事が待っているが、かまうものかと冷蔵庫を開け、冷えた缶を取り出した。その場でプルトップを開けかけて、生鮮食料品が入ったままという恐ろしい可能性に思い至り、慌てて冷蔵庫の中を調べる。幸い、すぐに悪くなるような物はなかった。おそらく何らかの処分をしてから行ったのだろう。私が気付く程度のことなら、大抵は先に気付いて手を打っているのだ。いつもそうだ。
 今度こそビールを喉に流し込む。体の芯が冷え、次いでじわりと熱くなる。さすがに普段よりアルコールの回りが早かった。ソファーに腰を落ち着ける気にはなれず、ぶらぶらとリビングの中を歩きながら缶を傾ける。新聞があれば読むともなく捲るところだが、留守中に配達された分はまとめて保安部員が保管している。持ってくるよう命じてまで欲しい物ではなかった。
 ベランダへと通じる窓を開け放つ。蒸し暑い空気が体の前面に押し寄せてきた。夕方から一時雨が降ったと聞いた。湿度が高く、手で触れられそうなほど空気はじめじめとしている。雲が覆った夜空には星の一つも覗かない。
 アサガオの花も閉じていた。日中とは違う妖美さの漂う赤紫。根元の土は雨で充分な湿り気を帯びていた。水遣りの心配はないだろう。そもそも枯れないように時々は立ち寄ると、あらかじめ私に言っていた。いつでも私より気が回る。
 飲み干した缶を水でゆすぐ。寝る前に歯を磨こうと洗面所へ行ったら歯磨き粉もだいぶ減っていた。戸棚の中を覗いてみたが在庫はない。
 リビングのメモ帳に、忘れないようボディソープと歯磨き粉と書いておく。これで今度買ってきてくれるだろう。レイか……シンジが……。

 ――ポイント五倍デーにまとめて買ってくるから、それまでは今のを何とか持たせて。
 ――減った物は出しにくくて好かん。明日買ってきてくれ。
 ――子供みたいなこと言わない! 父さんは節約意識薄すぎ!

 シンジの説教、レイの笑顔……温かな幸福に満ちたそれらは、だが次の瞬間掻き消える。残ったのは私一人しかいない部屋。
 意識するまいと努めてきた静寂が胸の内側に冷たく満ち、足を床へ縫い止める。
 この部屋は……こんなに広かっただろうか?
 一人で暮らした時間も確かに記憶に存在するのに、思い出そうとしても出てこない。代わりにシンジとレイのいる情景が数限りなく溢れ出る。休日に私を邪魔くさがりながら掃除するシンジ――あのカレンダーはレイが買ってきた物――ソファーの上で遊ぶ幼い二人――
 過去からの幻聴、幻視。現れてはすぐに消えていく。
 残ったものは――私だけ。










 朝が来るとまた仕事が始まった。
 サルベージ。予算交渉。各種折衝。施設の復旧。エヴァの修理……

 夜が去り朝が来るとまた始まる。
 サルベージ。予算交渉。各種折衝。施設の復旧。エヴァの修理……


 気が付けば闇の中にいた。


 四方八方が漆黒の闇。
 見えるものは私自身と一人の子供。私に背を向けて膝を抱えてうずくまる、制服姿の男の子供。
 肩に手を置こうとして、手がまるで動かない。
 前に回りこんで目線を合わせようとして、足がまるで動かない。
 言葉を掛けようとして、口がまるで動かない。
 なのに耳は私の声を捉える。

 ――乗れ。








 また、闇の中にいた。

 今度はうっすらと辺りが見えた。馴染みのない天井。どうやら私は仰向けでいるらしい。
 気配らしきものを感じ、横を見る。ぼんやりとした、人の形。レイ……。
 反対側でドアの開く音がした。さっと光が差し込んで辺りが急に明るくなり、目を瞬かせながらそちらへ顔を向ける。四角い光を黒く切り取るようにして、人の形をした影が立っていた。

「おじさま、気が付いたの?」

 レイ。すると横にいるのは……
 視線を転じると、そこにはもう誰もいなかった。

「大丈夫? 気分悪くない?」

 天井の室内灯が灯る。辺りを見回して、ようやくここが病室で、自分はベッドに寝かされているのだと理解する。腕には点滴の針まで刺さっていた。
 心配そうな顔をしたレイが、食事の載ったワゴンを押しながら脇へと来る。

「覚えてる? 仕事中に倒れたんだそうよ。先生が言うには心労が祟ったんじゃないかって」
「そうか……」

 記憶を手繰り寄せる。初号機の格納されているケイジを歩いていたところまでは思い出せたが、そこで途切れた。直後に倒れたのかもしれない。

「大事を取って今晩は入院してほしいそうだから、おとなしく従ってね」
「わざわざすまなかったな……」
「ううん、元々おじさまに会いにネルフに行ったところだったのよ。家に帰ることにしたって伝えようとして。そうしたら倒れたって聞かされたものだからびっくりしちゃった。でも大したことなくてよかったわ」

 優しい口調で話すレイは、十日ほど前の、最後に会った時より随分元気を取り戻していた。少なくとも表面上はもう平素の状態に近い。
 安堵すると同時に余計に自分が情けなくなり、逆側へ首を回した。

「ご飯食べられそう? ……おじさま?」
「……私が乗せた」
「え?」
「私がシンジを乗せたのだ。止めようと思えば止められたものを……」

 悔悟の念が口をつく。
 先程見た闇の光景。あれは夢ではなく現実だ。現実の縮図。逃げ場のない世界。口先では案じてみせても、結局いつもいつもシンジを追い込み、犠牲としてきた。
 私の代わりにユイが絶対の安らぎを与えてくれるのなら……その方がいいのかもしれない。心の行き場所は本人だけが決められる。幸福でさえあってくれるのなら、例えそれがどこでも、どんな形でも……。雪降る夜に少女が満ち足りた顔で逝ったように……。
 ベッドの脇の椅子に、レイが腰を下ろした気配がする。そちらを見ることが出来なかった。

「帰ってくるわよ」

 耳を疑う。明日で旅行は終わりだから帰ってくる――まるでそんなふうにでも言っているような、あまりに自然な言い方だった。

「待ってる人がいるって、シンジは知ってる。だから帰ってくる。心配ないわよ」

 恐る恐る視線を向けると、何ら気負いのない笑顔が返された。

「レイ……」
「おじさまはとにかく一晩ゆっくり休んで、元気になること。ね?」
「ああ……」

 胸の中に根付いていた氷が急速に融解していく。根拠といえるほどの具体的理由は挙げられていないのに、レイがそう言うのなら大丈夫だろうと思わせるだけの説得力が、その笑顔にはあった。同じ顔立ちをした者達の分まで微笑み掛けてくれているような、心を吸い寄せる笑顔。

「それにはまずご飯を食べないとね。私もまだだから一緒に食べましょうよ。起きられる?」
「ああ、おそらく……」

 手を借りながら半身を起こす。倒れた時の状態が思い出せないので比較は出来ないが、今の気分は悪くない。
 テーブルの上に食事が載せられる。先程から感じてはいた匂いが、ようやく食欲に結び付く。そういえば昼は時間がなくて、パンとコーヒーだけで済ませたのだった。
 レイも売店で買ってきたらしい品をビニール袋より取り出す。ペットボトル入りの緑茶と、ほのかに湯気の立ち上るトンカツ弁当。どうやら私の鼻が主に捉えていた匂いはこれだったらしい。「何だかガツンとした物が食べたくて」との照れ交じりの釈明は、女子中学生にとっては大事なことなのか。

「……お前は強いな」

 箸を進めながら嘆じずにはいられなかったが、レイはきょとんとした後、明るく笑い飛ばして否定する。

「強くなんかないわよ、最初はすごくショックで学校にも行けなかったんだもの。アスカがいなかったらどこまで落ち込んでたか……そうそう、後でちゃんとお礼を持っていかないと。ミサトさんにもアスカにも本当にお世話になっちゃって」

 瞳を伏せ気味にしてはにかむ。

「それにね、シンジのことを心配してるのは私達だけじゃないのよ。学校に行ってそれが分かって……きっと帰ってこようって思うはず――そんな気になった途端、スーッと楽になったの。あぁ、きっと大丈夫だって。変?」
「いや……その通りなのだろう」

 不思議なもので、久しぶりにレイの笑顔と出会えただけで力が湧いた。
 私の方でもレイを支えられていたらいいのだが。

「……トンカツを一切れくれないか? 代わりにカマボコをやろう」
「それ、割に合わない気がする」

 口とは裏腹な朗らかな笑みとともに、レイは交換に応じてくれた。美味い――そう感じられる食事はいつ以来だろう。
 いずれシンジも加わってまた三人となることを、もう疑わなくなっていた。





 やがてリツコ君が退院して仕事に復帰すると、各種作業の進捗具合は増した。守勢から攻勢へ転じるような雰囲気が生まれてくる。
 そんな中で、私には一つやっておくことがあった。





 油断のない動作の中にも余裕を漂わせてこちらを振り向き、しかしそこでぎょっと目が見開かれる。後をつけてきたのが私だとはさすがに思わなかったらしい。まずは軽く相手の動揺を誘えたことに満足を覚えながら、悠然と歩み寄ってみせる。

「奇遇だな」
「これは司令……一体どうなさったのです?」

 それでも素早く愛想笑いを作る辺り、加持リョウジもひとかどの諜報員ではあった。

「冬月への用事を思い出して追い掛けてきたら、同じ目的らしい君が目に入ってな。どこぞの店に誘う機会でも窺っているのか? だとしたら私も仲間に入れてもらいたいものだ」
「ははっ、司令もお好きですね」

 人気のない通路に流れる、白々しい会話。それとなく視線が交錯する。

「急いで追わなくてよろしいのですか?」
「よく考えたら別に急ぐ必要もない。後にしておこう」
「左様ですか。では場所を探しておきますので、今度是非御一緒いたしましょう」

 さりげない調子で話を打ち切り、私が来た方へと戻ろうとするが、生憎こちらの用向きは済んでいない。

「いや、よければ私の知っている店に連れて行こう」
「それは光栄ですね。何というお店です?」
「地下にあるものの本当の名」

 明らかに加持リョウジの顔付きが変わった。口元だけは人好きのする弧を保ちつつ、鋭い視線を走らせ、慎重に真意を探ろうとしている。
 期待通りの反応を見せてくれたことに、私の口の端が意地悪く持ち上がった。

「……気に入ってもらえるといいのだがな」










【ネルフ非公式記録より抜粋】

 ――日、失踪した特殊監査部所属、加持リョウジの所在は未だ掴めず。政府内務省へ帰任した線が有力と見られるも、確たる証拠は――極秘裏に処分された可能性――捜索の範囲を拡大し――



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