近くを通り掛かった時、そういえば確認したいことがあったと思い出した。私がリツコ君の研究室に立ち寄ったのはただそれだけの理由だったのだが、

「……どうかしたのかね?」

 つい尋ねずにはいられないほど、彼女は悄然とした面持ちでいた。

「いえ、何でも……。それより司令こそどうなさったのです?」
「別に緊急のことではないのだが……」

 用件を切り出すと、すぐに答えが返ってきた。おかげで目的は早々に達せられたが、暗い表情が気に掛かって立ち去りにくい。リツコ君も所在なさげに視線を動かしつつも、追い出そうとはしてこない。私が邪魔なら「まだ何か? お仕事はないんですか?」くらいは平気で言ってくるはずだ。
 二人して突っ立っていても仕方がないと思ったか、「コーヒーでも飲んでいかれますか?」と提案してくる。

「いただこう」

 ようやく少し気詰まり感が解消されて、手近な椅子に腰を下ろす。コーヒーが用意される間、書架や机の上を眺める。端末にはシンクロ率のデータが表示されている。あるいは作業の途中で何か行き詰まったのだろうか。灰皿にはまだ充分吸えそうな長さの吸殻が一本だけ載っていた。
 香ばしい湯気の立ち上るカップを、どうぞと差し出され、受け取る。リツコ君も自分の分に息を吹き掛けながら椅子に座る。互いに正面の位置は相手よりずらしていた。しばらくコーヒーを啜るだけの時間が続いたが、やがて彼女が呟きを落とす。

「……私事なんですよ」
「そうか」

 無理に聞き出すつもりはなかったし、彼女もそれくらいは察してくれていたと思うが、寸時の沈黙の後、また言葉が出てきた。

「……猫が、死んだんです」

 ――死んだんです。
 時空が歪む。前にも聞いた台詞だった。同じ口から、独房で……。

「祖母のところに預けていて……さっき、連絡を受けたんです」

 現実に耳へ流れ込んでくる声に意識を傾ける。独房が消え、研究室が戻る。
 リツコ君は膝の上でカップを両手で包み、憂愁に沈んだ眼差しをその中へと注いでいる。

「歳が歳だったとはいえ、やはり寂しいですね。二度と会えなくなるというのは……」

 相槌を打つ代わりにコーヒーを一口飲んだ。彼女も思い出したように口元へ運ぶ。

「……時間が出来たら帰るといい」
「そうします。祖母のことも心配ですし」
「おそらく、長くはかからん」
「はい」

 終局は間近に迫っている。
 じきに訪れる。どんな形であるにせよ。

「……いつか、あの子達も連れて行っていいですか?」

 深く柔らかな声が伺いを立ててくる。

「手を合わせてほしいとか、そういうことではなくて……私や母が育った風景を、あの子達にも見せたいんです」

 木々の緑。土の匂い。
 かつて忌まわしい理由で訪れた地が、優しい情感を伴って私の中で甦る。

「この街以外をほとんど知らないからな。きっと喜ぶだろう」
「はい……」

 淡い笑みが彼女の顔を彩った。





 第十六使徒の襲来は、それから一週間ほど後のことだった。
 先行させたダミー零号機に物理的融合を試みてきた瞬間を逃さず、機体ごとの爆破をもって殲滅を遂げた。





贖罪 〜彼の歩む道〜

episode 18





「さすがにロンギヌスの槍、零号機と相次いで失っては、海のように広大なゼーレの心も限界を迎えたと見えるな」

 無闇に広く、暗い、言ってしまえばはったりを利かせるための舞台装置である公務室には、朗らかなまでの冬月の声はあまり似つかわしくなかった。今日発売されたばかりの雑誌を手に、机の片隅で悠然と詰め将棋を楽しんでいるその姿をまともに見られず、私は反対側の隅に視点を置く。
 パチン、パチンと断続的に響く音。やがてそれが止まると、駒と盤を片付ける様子が伝わってくる。次いで椅子を引く音。

「さて、行くかな」
「冬月――」

 立ち上がった冬月と、立ち上がることも出来ない私の視線がかち合う。飄然とした、だが穏やかな笑みを前にして、急に自分が出来の悪い学生にでもなった気分に襲われる。明らかに不備のあるレポートを、そうと知りつつ提出しようとしている――そんな感覚に似ている。

「行くより他にないだろう?」

 案の定それだけで私の主張は封じられ、出口を失い胸の内に苦く拡散する。

「出頭命令を拒めば、それを理由に強行手段に訴えられる。お前は曲がりなりにも親たる立場。リツコ君は若い。どう考えてもこれは私の役回りだ」

 冬月の表情は変わらない。必ず戻ってこられる保証はないと知っていながら。

「……手は尽くす」
「期待しとらんよ」

 あっさりと笑い飛ばし、普段通りの足取りでドアへ向かう。
 最後に一言だけ聞こえた。

「……後は頼む」





 第3新東京市は市民の疎開が進む。ジオフロントからでは窺えないが、列をなして車が市外へ向かい、大きな荷物を抱えた乗客で電車も満杯だという。
 学校も全て閉鎖された。どこの家庭も逃げ出すことで忙しいらしく、第壱中学校閉校式は閑散たる有り様で、いつもは長話の校長も早々に式辞を切り上げたと後で聞いた。シンジもレイもセカンドチルドレンも、見送りのためあちこちを駆けずり回ったようだが、果たしてどれだけの友人と最後に言葉を交わせたのか。
 一度、本部敷地内の庭園に三人でいるところを見掛けた。それぞれ噴水の周りに腰を下ろし、シンジはぼうっと空を仰いで、レイは揃えた膝の上に両手を乗せて俯き加減にして、セカンドチルドレンはぶらぶらと足を揺らして。消沈した面持ちだけは共通だった。
 冬月不在の分、私の業務量は若干増えた。特に意気込みもせず、しかし不備はないようにこなしながら、夜間には別の作業も進めた。誰の助力も仰ぐつもりのないことを。





 深夜、携帯電話に連絡が入った。保安諜報部からだった。

『副司令を無事に保護いたしました。衰弱は見受けられますが重篤な状態ではありません。先程付属病院へお連れしたところです』
「そうか。御苦労」

 思った以上に肩から力が抜けた。懸案が一つ取り除かれたことを励みとし、作業を再開させる。
 しばらくして今度は冬月本人が電話を寄越してきた。声にまだ張りはないが、冗談を交える程度の余裕はあるようだった。

『飲まず食わずの状態に置かれたよ……。年寄りを敬わないとは感心しない連中だ』
「奴らもそんな説教は受けたくないだろうよ。しかしよく解放してもらえたな」
『協力者を名乗る者が逃がしてくれた。見覚えのない男で、最初は手の込んだ罠かとも思ったが……。お前の差し金か?』
「いや……だが味方ならいずれ向こうから接触してくるはず。それまで様子を見るとしよう」

 話しながらも手を動かすことはやめなかった。

『……妙に声が聞き取りにくいな。碇、今どこにいる?』
「地下だ」
『地下……? 碇、お前……』
「ゆっくり養生しろ」

 そう告げて通話を切った。朝になったら顔を出すとしよう。それまでには終わる。
 灰を踏み付け、プラスチック片を踏み砕き、確認のためにいま一度室内を眺め回す。問題はなさそうだ。残るは一つだけ。
 手元のスイッチを操作すると部屋がオレンジ色の光彩で満たされた。床に落ちる、ヒトの形をした無数の影。
 “レイ”が揺れる。笑っている。この世の苦しみも喜びも、何一つ知らない顔をして。

 見つめ続けたまま指先だけを動かした。

 激しい泡立ちとともに、目の前の顔が苦悶で歪む。そのまま首がぼろりと取れた。腕も脚も胴から離れ、胴自体も割れて崩れる。撒き散らされた皮膚が、骨が、臓物が、LCLを染めていく。数十の肉体がその十倍以上の肉片と化し、漂い、沈む。

 これでいい。
 これで真実、レイは代わりのいない存在となる。
 関係資料も処分した。紙は燃やし、機械は破壊した。例え本部が占拠されたとしても証拠を掴まれることはない。
 レイの秘密は守られる。

 この光景を冬月とリツコ君まで目にする必要はない。私達だけが見届ければいい。
 闇から出ることのなかった生命達が、赤黒い水底へと沈む光景を。

「……私を、恨んでいるか?」

       「……いいえ」







 ――残るは、第十七使徒のみ。



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 ようやくここまで来ました。
 終盤です。





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