僅かずつ残っていた中身を合わせて、焼酎のレモンソーダ割りを作る。炭酸はだいぶ気が抜けていたが仕方ない。空になったそれぞれのペットボトルを水でよくすすぎつつ、台所の窓より夜景を眺める。建物の数に比べて灯りが少ない。寂寞とした想いが胸をよぎり、軽く吐息をついた。
 ペットボトルとグラスを持ってダイニングへ戻ると、椅子に座って作業を続けたままレイが笑みを含んだ声を投げ掛けてきた。

「今晩の溜息、これで八つ目」
「……数えるな」

 夕食の終わったテーブルには大小様々な容器が並べられている。そこに更に二つを追加し、どかりと私も椅子に腰を下ろす。抗議など意にも介さずレイはクスクス笑って錐を操り、ペットボトルの蓋にまた新たな穴を開けた。

「今の溜息は別の理由によるものだぞ」
「じゃあ、七つがシンジ関連ね」

 思わず盛大な溜息をついて肩を落としてしまい、爆笑された。
 一昨日、第十七使徒が出現して消滅したあの日にシンジは家を出てしまった。そして未だに帰ってこない。

「別に家出なんて今に始まったことじゃないでしょ?」
「それはそうだが……」

 ちびちびと酒を飲むがあまり美味くはない。
 レイの言う通り、昔からシンジの家出はあった。私への不満が限度を超えると――靴下を脱ぎっ放しにしていたとか新聞を片付けなかったとかで――レイを連れて冬月の家やリツコ君の家に行ってしまったのだ。本部の仮眠室に泊まり込んだこともあった。やがて必ずしもレイは行動を共にしなくなり、シンジももっと小規模な、それでいて実効性の高い手段を取るようになったが、ともかく家出自体は珍しくはない。
 今回の居場所は第壱中学校と判明している。水道も電気も止まってはいない上に保安部員もいるので、健康面、安全面では特に心配ないだろう。
 しかし気に病まずにはいられない。何せ、

「殴ってしまったからな……」

 もののはずみ、疲労で手足の細かな制御が利かなかった、ところどころ理性も吹き飛んでいた云々と言い訳したところで、初めて手を上げてしまった事実は動かせない。後悔先に立たず。覆水盆に返らず。メールにも電話にも応じてもらえない現状に鬱々と気が塞ぐ。
 対してレイは至ってさばさばとしたものだ。

「確かに理不尽だったかもしれないけど、たまにはいいんじゃない? ちょっと殴るくらい」
「ドライだな、レイ……」
「普段が過保護なんだもの、おじさまは」

 そう言われては反論が難しい。別のことで威厳を構築するべく、蓋の穴に紐を通して作業を手伝う。こんな小手先に騙されるレイではないだろうが。

「今日一応様子を見てきたけどね、ふてくされた感じだったわよ、シンジ。渚君に死なれた悲しみがおじさまへの恨みという方向に向かったなら、結果的に殴った甲斐があったかもね」
「素直に喜べんぞ……」
「まぁ、そんな単純な心理状態でもないだろうけど」

 家出先が学校という事実もそれを裏付けているように思えた。ネルフとそこに属する人間からは極力離れたかったのかもしれない。一時的な逃避にすぎないと承知していても。

「シンジのためにも、早く渚君の身の安全が保証されるといいわね」

 口調は明るいものの声音が若干低くなったため、顔を上げてレイを見る。取り繕うかどうかで迷ったのか寸時逡巡を覗かせたが、結局レイは手を止めて私を見返した。真摯な憂いを宿して。

「……使徒は渚君で終わりなのよね?」
「ああ」
「でもまだ何かあるのよね……?」

 レイが作っているのは簡易自動給水器だ。蓋に通した紐の端をペットボトルの中の水に漬け、もう一方の端を鉢植えの土に埋めれば水が伝わり、何日かは植物を枯らさなくて済む。
 明日からは全職員がネルフ本部内に詰める。地上に戻ってこられる日付は決まっていない。

「次に来るのって……使徒じゃないなら、まさか……」
「そうならないように努めている」

 口に出させるには及ばなかった。

「お前達にはもう何もさせなくて済むように――普通の中学生に戻せるように努めている」
「どれくらいかかりそう……?」
「すぐだ。おそらく一週間とかからん」

 連中がそう求めている。全てを引き渡せと、近いうちに必ず迫ってくる。
 レイの顔はまだ不安で曇っている。

「全部終わったら、学校も再開される……? また……会える? みんな、いなくなっちゃったから……」
「会えるさ。第3新東京市は迎撃要塞都市ではない街に生まれ変わるのだ。出て行った者達も多くが戻ってくるだろうし、新たに流入する人間も増える。お前達も気兼ねなく外へ出掛けられる」

 そこへ辿り着くまではあと一息。

「だから、心配しなくていい」

 ゆっくりと噛み締め、想像を巡らせるような間を置いて、レイは小さく微笑み、頷いた。





贖罪 〜彼の歩む道〜

episode 20





 ――迎えに行って仲直りしたら?
 レイの助言をありがたく採用させてもらった。
 全員が本部内に泊まり込むという決定はシンジにも伝えられている。朝九時に車で迎えに行くと連絡させ、それに私も同乗した。
 荷物をまとめておとなしく校門で待っていたシンジだが、保安部員だけでなく私まで車から降りると露骨に顔をしかめ、横を向いた。

「シンジ――」
「よろしくお願いします」

 何故来るのかと勢い込んで問い詰めてくれたなら、まだ会話の取っ掛かりに出来た。しかし保安部員に対してのみ一礼し、完全無視の態勢でさっさと素通りされてしまっては……。取り付く島もないとはこのこと。保安部員が恐縮して身を小さくするのが余計に気分を沈ませる。
 仰いだ天は晴れ渡っていた。色の付いたガラス越しにでも分かる鮮やかさ、眩しさ。降り注ぐ陽光が肌を焼く。春も秋も冬も去り、一つだけ残った季節。永遠の夏――。
 顔を背けた状態で後部座席に収まっているシンジ。それをしばし凝視した後、私は車の前部へ向かって歩き始めた。ドアを開けたまま待っていた保安部員が慌てて閉め、今度は助手席のドアに手を掛けようとする。だが私が目指したのは反対側の運転席だった。

「司令!?」

 狼狽する様子を脇目に座席へ滑り込むと、シートベルトを締めるのもそこそこにギアを操作する。

「ちょっと父さん、何を……うわぁっ!!」

 思い切りアクセルを踏み込むと、体がシートに押し付けられる勢いで車が発進した。保安部員の叫びが瞬く間に遠くなる。

「何やってんのさ、父さん!? 早く止めてよ!!」
「せっかくの好天、しかも今日で当分地上とお別れ。ドライブでも楽しもうではないか、シンジ! そうだな、行き先は海でいいか?」
「馬鹿なこと言ってないで止めてよっ!! ってかスピード出しすぎ!! 前、前、カーブっ!!」

 道路全体を使って曲がり切る。

「父さんってちゃんと運転出来んの!? 僕、見たことないんだけど!?」
「心配するな、ユイと遠出したこともある!」
「何年前の話さ、それ!?」

 悲鳴をBGMに駆けたドライブは、けれども三十分と経たずに強制終了させられた。空から追撃を受け、陸上には封鎖線を敷かれ、あえなく御用となったのだった。
 連れ戻されたネルフの公務室で待っていたのは、私の代わりに席に座す、苦虫を百匹ほど噛み潰した表情の冬月。正座、との低い声での求めに一も二もなく従う。横でシンジも。

「何故こんな真似をした?」
「……空があまりに夏の色だったからだ」

 端的かつ正直に答えたつもりだったが、冬月には何の感銘も与えられず、長時間説教コースに突入された。





       「気の毒に……副司令、胃薬と頭痛薬を所望していたわよ?
        寿命が八日は縮んだんじゃないかしら」

 もはや非難するだけの価値もないといった口調で、退室後の冬月の様子をリリスレイが教えてくれたが、今の私はそれどころではなかった。可能な限りゆっくり脚を伸ばそうとするも、すぐに痺れが走ってそのたびに上半身だけでのた打つ。「全部父さんのせいだ……」と怨嗟の声を吐きながらシンジも、金網で炙られるイカのようにのたくる。冷ややかな憐れみの視線に晒されながら、私達は奇妙な地獄の踊りを続ける。
 いつ果てるとも知れなかった長い苦悶にようやく終わりが見えてきた頃、私とシンジの目が一度合った。けれどもすぐに憤然とそらされる。慎重な手つきで互いに脚のマッサージを始める中、強い語気で責め立てられる。

「ったく、暴走なんてレベルじゃないよ。対向車が走ってなかったからよかったものの、普通の状態なら何回死んでたことか……」
「全て計算した上での高度な技術の運転だ」
「どこが!? 減らず口だけは達者なんだから。もう二度と、誓って、僕は父さんと同じ車には絶対乗らない。あれで二人して死んでたら、残されたレイは色々な意味でかわいそうだったろうよ」
「む……それは確かに……」
「分かったら反省するんだね、心の底から深く。これだからゆっくり家出することも出来ないんだ」

 ぶちぶちと吐き捨てられる内容は些か言い返しにくいもので、口を閉ざさざるを得なかった。
 と、机に腰掛けて私達を見ていたリリスレイが不意に笑い出す。そっくりね、というのが何を指しているのか最初は分からなかったが、視線を追ってみて気付く。脚を揉む私とシンジの手つきが酷似しているのだ。
 反対側を向いているシンジはまるで気付かず、攻撃的に言い放ってくる。

「僕は許してなんかいないからね?」
「承知している。恨みたければ恨め」

 死んでもいない奴のことで嘆かれるよりはマシだ。

「……恨むし許す気もないよ。何も出来なかった僕自身のことも。その上で命を捨てて未来を譲ってくれたカヲル君のため、精一杯生きる」

 いや、うむ、まぁ……そう決心したならそれでもいいが……。
 己の脚を揉み、さすり続ける、シンジと私の両手。合わせようと意識せずとも動きが合う。これもまた、遺伝子の神秘というものなのか。ヒトを創り出した者はただ笑う。

「……思えば、お前達には反抗期らしい反抗期などなかったのだな」

 自然な素振りで顔をこちらへ向けかけて、慌てて元の角度に戻す。それでも刺々しかったシンジの雰囲気は少し和らいでいた。

「お前は私やレイが忙しかった分、我慢して。レイは早くからチルドレンとしての任を背負った分、我慢して。戦いが始まってからはそれこそ反抗どころではなくなって。……すまなかったな」
「何さ、急に……」

 戸惑ったのか照れくさかったのか身じろぎし、「別に、そんなに我慢してきたわけじゃないよ」と口の中で呟くように言う。

「レイがいたから助けられたようなところも結構あるし……」
「そうか……」
「一人じゃなかったから……今こうしていられるんだと思う」

 言葉を切ったのは、湧き上がってきた感慨と向き合っているからかもしれない。
 私もしばし追憶する。長い、長い道のりを。

「……それよりレイの心配をした方がいいんじゃない?」

 照れ隠しか、ぶっきらぼうな口調で告げてくる。

「レイに反抗されたら父さん、その場で卒倒するんじゃないの?」
「レイの反抗期か……来るのだろうか」
「来るよ、絶対」

 あっさり請け合われた。

「僕はしょっちゅう父さんに文句をつけるけど、レイはそういうことないじゃん? 普段がおおらかな分、どこかですごい爆発を起こすだろうね。『うるさいわね、話し掛けないでよ! 加齢臭なんて大っ嫌い!!』くらいは言われる覚悟をしといた方がいいよ?」
「やめろ、今から死にそうだ……」

 リリスレイで慣れているからいいというものではない。レイに罵倒されたらきっと私は耐えられない……。
 クスッとシンジが微かに笑った。

「……まぁ、父さんの言い分の方が明らかに正しい場合なら、味方してあげないこともないかもね」
「頼む……」

 脚の感覚が戻り、予言による動揺も収まってくると、今度は空腹感に襲われた。もうすっかり昼を回っている。
 昼食に誘ったらシンジは応じてくれるだろうか……。

       「誘うまでもないかもしれないわね」

 謎の言葉に首を捻っていると、入室許可を求める声が聞こえてきた。

「お疲れさま……というのかしらね、こういう状況も。とにかくお腹空いてるでしょ? 食べましょうよ」

 可笑しさをこらえ切れないといった表情で、おにぎりを載せた盆とポットを手にレイが入ってくる。たちまち、薄く残っていた最後の障壁も崩壊し、シンジと私はようやくまともに顔を見合わせる。

「おじさま、ちゃんと冬月先生に謝った? 保安部の皆さんにも特別手当を出してあげたら?」
「そうだよ、どれだけ迷惑掛けたと思ってるのさ。車を乗っ取る司令なんて、どこの世界にいるんだか。手当というより慰謝料ものだよ」

 椅子が足りないのでそのまま床に車座になって食べ始める。シンジはここぞとばかりに悪態を並べ、広げたハンカチの上に座ったレイが、湯飲みに麦茶を注ぎつつ愉快そうに耳を傾ける。私は時に反論し、時に聞こえないふりをしながらおにぎりを頬張る。リリスレイが茶々を入れる。外から射し込む光が、この圧迫的な造りの部屋さえ明るく照らす。
 私の仕事中に床で一人遊びをしていたシンジを、昨日の姿のように思い出す。小さかったレイの手。細くしなやかな女性の手へと変化した。大人ではないが、もう決して幼くはない二人。
 それでも笑い顔は変わっていないように思う。昔の面影が確かに残る。
 ユイに通じる笑い顔。

「……今度はレイも一緒に行くか?」
「ちょっと父さん――」
「車でなければいいのだろう? 電車かバスを使えばいい」

 海に行って……そうだな、釣りでもしよう。首尾良く釣れたらその場で調理して弁当と一緒に食べるのだ。
 その日の海はきっと、いつかユイと見たものと同じかそれ以上に美しく感じられるだろう。

 リリスレイと目が合う。
 互いの意志に揺るぎはなかった。







 終局の時も、空は眩い光に満ちていた。



 敷かれ続ける警戒態勢が何に備えてのものなのか、疑問に思っていた職員は多かったろう。だが今、彼らの前に答えは現れた。
 外部との回線が次々と遮断されていく。攻撃が始められたのだ。
 敵の名称は人間。目的はネルフ本部とエヴァの占拠。その先に待つものは補完計画。

 人類の補完。
 完全な単体への進化。
 心の隙間が埋められ、不安も恐怖も悲しみもない世界が訪れる。
 それは確かに一つの理想。人の脆い心への救い。
 計画を推し進める老人達を、非難する資格は私にはないだろう。私もまた他人の思惑などお構いなしに生きてきた。身勝手さも卑劣さも、連中と何も変わりはしない。弱くて愚かなだけの人間だ。
 人類の総意など語れはしない。世界にしても、私の双肩に命運を懸けたくはないに違いない。
 だから私はただ、私の家族を護るために行動しよう。子供達に未来を繋げよう。
 不安も恐怖も悲しみも、きっと補完されるまでもなくあの子達は乗り越えていく。


 ――どこだって天国になるわよ。だって……

 ――生きているんですもの。


 宣戦に応えるべく、発令所内を見渡し、息を吸い込んだ。



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